手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 10

マジック番組 

 昨晩(28日)何気にテレビを見ていたら、マジシャンが数人出演していました。原大樹さん、田中大貴さん以外は知らない人でしたが、どれも面白かったです。番組の意図として、マジックは進化している、ということをテーマとしているようです。マジック番組が少ない中、こうした企画を考えてくれるプロデューサーには感謝です。

 新しいマジシャンが、次々出て来なければ、マジック界は沈滞してしまいます。なかなか難しい時代ではありますが、何とか生き残って、活躍してほしいと思います。

 

コロナよりも人の理解

 コロナウイルスは、今月に入って、急に感染者が増えて、せっかくGotoトラベルキャンペーンが出たにも関わらず、またもや出足をくじく事態となりました。

 多くの人は、経済よりも、ウイルスを撲滅することのほうが大切だと仰いますが、今の現状では撲滅は不可能です。いくら抑え込んでも開放すればまた元に戻ります。さりとて、このままでは経済が成り立ちません。世界中の国々はもうロックダウンはできないことは分かっているのです。結局、経済を維持しつつ、ワクチンや特効薬ができるのを待つ以外解決の道はないのです。

 そうであるなら、もっともっとGotoトラベルキャンペーンのように、外に出て活動するような呼びかけが必要です。いくら感染者が増えても、もう3月4月のような、重症患者はほとんど出ません。ほぼ安全な状態と言えます。

 然し、それを不安がらせるようなニュースがマスコミで話題にされています。これでは多くの飲食店やホテル、旅行会社は倒産してしまいます。何とか、みんなが生活してゆけるように、不安を煽らないような方向に話を進めるべきです。

 今の状況では、この先の経済が立ち直るのに数年を要するでしょう。このままでは日本が貧国になって行きます。貧国となっては、国が、保証も、支援も、経済対策も打てなくなります。そうなっては、国が滅びて、コロナだけが残る結果になります。

 マスコミはおかしな風評を煽らず、国民は、コロナウイルスの感染者を加害者と見ずに、被害者として同情する、寛大な心が必要です。感染者の出た劇場や、ホテル、旅館。病院など、必要以上に騒ぎ立てるのはおやめなさい。その人たちも同様に被害者なのです。感染者を作り出そうとして活動いるのではありません。あまりに騒ぎ立てると、失業者が増えて、都市や、町が成り立たなくなります。もっともっと寛大な気持ちで見る目が大切です。

 

 

一蝶斎の風景 10

 信夫恕軒が一蝶斎の蝶をどう見ていたか、彼の漢文をもう少し見て行きましょう。

(以下宮崎修多 漢文訳)

 「蝶の一曲は、紙をひねって蝶を作り、扇で風を送れば蝶は舞い上がる。花に戯れたり、水を飲んだり、途中から二羽の蝶になり、離れたり付いたり、二羽が結ばれたりする。人の衣服に停まったり、一蝶斎の頭に停まったりする。まるで生きているようだ。この二羽を集めて握り、扇で扇ぐと、千羽の蝶。に変わる。これぞ天下の奇技。これに勝る芸はない。西洋のマジックを真似る昨今の芸人にこの技を見せてやりたい」。

 天下の奇技。これに勝る芸はないと断言しています。余ほどのお気に入り様です。但し、恕軒は、一蝶斎がこれ以外に演じている大道具の芸にはあまり興味がなかったようです。水芸であるとか、怪談手品でお化けや骸骨が空中浮揚するなど、一般客には随分受けたであろう作品などは何も書いていません。あくまで恕軒は手わざの芸が好きだったようです。実際如何にたくさんの大道具を演じても、一蝶斎がお終いに演じる芸は蝶だったようです。お客様は一蝶斎の蝶を診なければ納得しなかったのです。

 

 恕軒が一蝶斎を漢文にしてまで褒めたのは明治に至ってのことです。実は明治も中ごろになると、江戸時代を懐かしむ老人がたくさん出て来ます。「天保時代は良かった」とか、「文政時代はいい時代でした」。と言った具合で、こうした話をする人たちを天保老人と言って、過ぎ去った江戸時代にノスタルジーを感じる人が少なからずいたようです。劇作家の河竹黙阿弥もその一人で、明治19(1886)年になって、戯曲を書きます。盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)で、その中で、七五調のつらねが出て来て、そこに天保時代の一蝶斎を洒落のめしたセリフが出て来ます。どうぞ名優になった気持ちで、声を出して読んでみてください。いかに木阿弥が一蝶斎の芸を愛していたか、切々と迫ってくるものがあります。

 「一蝶斎の「蝶々」が、生きているように働くは、種の知れねえ不思議な技。同じ頭は坊主だが、手品も下手な食わせ物。伏せた「卵を鳥にする」、そのヒョッコの小娘へ、旦那が手をば付けたなどと、強請る「懸篭(かけご)」の「二重枠」。古い趣向の「蒸籠(せいろう)」から、種々なご託を引き出して、まことと見せる種回しが、証拠と言って持ちだした。文は「三社(さんじゃ)の当てもの」より、初手から偽と知れている、たくみは見え透くビイドロの、「水からくり」の魂胆も、種を見られた上からは、ここらで終局(はね)にしたがよかろう」。

 一蝶斎が得意とした、卵をヒョコに変える技、懸篭の二重枠、蒸籠、三社の当てもの水からくり等がうまく語り込まれています。一蝶斎が死して18年も経った、明治19年にこの芝居は上演されました。天保老人が聞いたなら、このセリフはきっと懐かしかったでしょう。弘化4年に、一蝶斎は養子に二代目を譲りましたが、殆どのお客様にとっては、一蝶斎とは禿げ頭の、大柄な、いい男の初代のことを指したのです。そして、一蝶斎こそが文化文政、天保、弘化と言った、江戸末期の文化を具現して見せた手妻師だったのです。