水芸撮影
昨日(1月31日)は朝から水芸の撮影をしました。NHKのテレビ撮りで、私が弟子の藤山大樹に水芸を継承しているところを撮影すると言うものです。
稽古風景を取るのですが、実際は実演するのとほぼ同じく、装置から小道具から衣装まで、すべてスタジオに運んで、スタッフが揃っている中で水芸の指導をします。
幸い、昨日は天気が良かったため、さほど寒くもなかったのですが、それでも真冬の水芸稽古は辛いものです。手足の冷え切った中、水を扱って稽古するわけですから、簡単ではありません。午前中にスタジオに入り、約1時間半かけて装置の組み立てをしました。その後全員で昼食をして、そのあと3時から稽古風景を撮影しました。
正月はいつもなら毎年ホテルや、ショッピングストアなどで水芸をします、今年は、コロナの影響で、正月の水芸の依頼がなく、道具を広げて演技をするのはこの日が初稼働です。
私が水芸を引き継いだのは31歳の時でした。今、大樹が33歳ですから、大体同じ年ぐらいです。但し、手順の改良から装置の改良まで何から何までしなければならず、大仕事でした。
一台目の装置は、天暁師(松旭斎天暁)から譲り受けたのですが、どうも納得出来ず、結局分解してしまいました。すぐに二台目を作ったのですがこれも満足出来ず、ボツにしました。30代の私にとって、水芸は大変な金食い虫で、金額にすれば、ベンツのSクラスが楽に買えるくらいの投資をしました。
潤沢な稼ぎがあってしたことではありません。随分女房には迷惑をかけました。然し、あの時どうしてそこまで水芸に没頭したのか、今となっては謎です。ただひたすら興味に引っ張られて、作品の改良をしました。
今、冷静に考えて、水芸を作る費用でマンションを買って、利殖に使うのと、水芸を所有するのとどっちが良かったか、と考えたなら、結果、水芸は良く稼いでくれました。かけた時間と私の狙いは成功したことになります。いろいろあって、今の装置は33歳に完成しました。それが三台目の装置です。
三台目の装置が出来ると、音楽を伊藤松超師(筝曲の家元)に作曲をお願いし、芸術祭に参加しました。当日は生演奏で新曲披露をして、結局この公演が芸術祭賞につながりました。
私にとっては記念すべき公演でした。然し、これで水芸の装置が完成したわけではなく、その後40歳まで、細かな部分の手直しをして、水芸を手掛けてから今の形になるまで約10年、ようやく完成しました。
一つの作品に10年もの年月をかけたのは、水芸と蝶の二作のみです。それだけに感慨深く、その後の私の舞台でも、水芸か蝶の依頼がほとんどで、繰り返し演じ続けて来ました。
今回は、たまたま大樹のドキュメント番組で、芸の継承をテーマとして、私が出演することになり、その一環として昨日の撮影に至ったわけです。
私の演じる手妻の多くは既に大樹に指導していますので、その芸を弟子に譲ることには何ら異存はありません。大樹だけではありません。他の弟子も同様です。前田将太も今年弟子を卒業しますので、前田が望むなら、水芸でも蝶でも教えて行こうと考えています。
私は余り、物や作品に執着がありません。作るときには大変な苦労をして作りましたが、出来てしまえばそれを独占しようとは考えません。人の年齢には限りがあります。いつまでも自分が作品を持ち続けていても、やがては私の寿命とともに失われて行きます。
私が先輩から蝶や水芸を受け継いで、そのお陰で安定した暮らしが出来たのですから、その先は、弟子に作品を譲って、弟子が生きて行けるように配慮しなければならないと考えています。
昔から、マジシャンは自身が一生、種仕掛けを抱え込んでしまうから、その作品は消えて行くわけです。どこかで人に譲れば、作品は残ります。ある時期が来たなら手放す勇気が必要です。但しタイミングが重要です。よほど信頼できる相手を見つけて、指導すればその先長く作品は残ります。
どう残す、どう生かす、という問題を真剣に考えておかないと、あっという間に機会を失い、結果、自身の足跡は消えて行きます。芸が残るか否かは次の人を信頼できるかどうかなのです。
蝶は子供を残すのに、葉の影に卵を産み付けます。別段万全の防御があるわけではありません。ほんのわずかに雨露をしのぐだけの一枚の葉に子供たちの将来を託すわけです。その卵を狙ってほかの虫がやって来ますし、時には鳥に食べられることもあります。なにより葉が枯れて落ちてしまったなら卵も腐ってしまいます。
蝶は、多分周囲が育ててくれるだろう、と言う儚い願いで子供を産み付けるのです。そんな危うい環境の中でも子供は育って行きます。それを思えば、今私が残そうとしている手妻は遥かに恵まれています。
習いたい、覚えたいと言う若い人があるなら、否定する理由はありません。教えたらいいのです。
私は40代の頃、水芸の特許を出願しています。これは水芸すべてに特許をかけたわけではなく、新たに作った措置の、メカニックに対して特許を出願したのです。別段既に水芸を演じている人に枷をかけるために特許を取ったわけではありません。
話は逆です。外部の企業などが類似の作品を作って簡単に装置を真似る人が出たときに、それを守るために特許を出願したのです。結果として、その後模倣をする事件が2件起きました。
一件は江戸村に譲った装置を江戸村が支店を出すときに無断で複製しようとしました。それに関して複製を止めたことは特許の成果だったと考えています。
そもそもの江戸村に水芸を譲ったのは、私の弟子を使って、水芸を残してゆきたいと言う話を江戸村から持ち掛けられたからでした。それなら弟子の活動場所を作り出すことにもなると思い、装置を譲りました。
然し、実際に水芸を渡すと、彼らは役者を使って水芸を演じるようになりました。定期的に私が出かけて振りをチェックすると言う話も、メンテナンスの保守契約も破棄されました。すべては口約束に終わりました。
彼らは装置が欲しかっただけなのでしょう。当然私は江戸村から手を引きました。それでも、水芸が何らかの形で彼らの役に立ったのなら、水芸は生かされたことにはなります。あながちそれも間違いとは言えないでしょう。
どう残す、どう生かすは難しい問題です。時に騙されることもありますが、然し、どんな時でも前向きに活動していれば、必ず良い方向に向かって行きます。
私が水芸を作ったときには大樹はまだこの世に生まれていなかったのです。そうした人が30数年経って水芸を継いでくれるのですから、先のことを思い悩む必要はありません。ちゃんと前に向かって活動すれば、自然とよき方向に向かって行くのです。昨日の撮影を見て、私のこれまでの活動が間違いでなかったことを実感しました。
続く