手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

石原慎太郎さん亡くなる

石原慎太郎さん亡くなる

 

 政治家であり作家であった石原慎太郎さんが昨日(2月1日)亡くなりました。慎太郎先生とのご縁は何度かありましたが、慎太郎先生が私を認知して、私の蝶の芸を惚れぬいて支援してくださったのは6年前からです。

 先生は毎年、年末に親しい友人を招いて人形町玉ひでで忘年会をしていました。そこに毎年芸人を呼んでみんなでショウを見ていたのですが、先生は来る芸人がどれもこれも気に入らないらしく、ショウを見終えると不機嫌になります。

 ある時、ヘブンアーティスト(これは先生が発起人となって、東京都が大道芸の人たちに認可状を出そうと言う企画で、資格試験をした上で路上で芸能を見せることを許可するものです)のジャグリングを呼んでショウをしてもらったのですが、よほど不出来だったと見え、「なんだそれは、そんなの芸じゃない。帰れ」。と追い返してしまったそうです。

 まさか、ヘブンアーティストの生みの親の慎太郎先生から帰れ、と言われるとは思いませんから、アーティストもさぞや驚いたでしょう。そもそも、先生くらいの人なら、芸の内容が少々悪くてもあまり露骨に怒らないものですが。直情の先生はたちまち怒り心頭になって芸人を返してしまったのです。

 そして、玉ひでの社長に「誰かいい芸人を探してきてくれ」。と言われ、翌年、それなりの芸人を呼んだのですが。これもまた不機嫌になり。失敗。困った玉ひでの社長は、人形町で一番大きな座敷の、浜田家さんの女将に相談すると、私の名前が出て、早速、玉ひでから私の事務所に電話が来ました。私は、玉ひでさんに出かけ、社長と話をしました。

 「毎年毎年芸人さんを入れているんですが、石原先生が見るたび機嫌が悪くなって、困っています。藤山さんなら大丈夫と言われたので、お願いしたいのですが。藤山さん。本当に大丈夫でしょうね」。

 そう言われて、「はい大丈夫です」。とも明言できず、「いえ、自信がありません」。とも言えません。「これまで数多くの座敷をしてきましたが、いきなり帰れ、と言われたことはありません。皆さん喜んで下さいます」。と言うと、玉ひでの社長さんは安心をして。当日を迎えます。

 

 当日は、店の二階にある古い方の座敷に20人が集まり、みんなで軍鶏鍋(しゃもなべ)を楽しんでいます。頃のいいときに座敷に入り、いつものように、引き出し、サムタイ、金輪、蝶を演じて終わりました。終わった瞬間、お客様からご祝儀の一万円札があちこちから出て来ました。まぁ、喜んで頂けたのでしょう。

 楽屋に引っ込んで、衣装を脱いでいると、社長が飛んできて、「もう一度座敷に来てくれませんか。みんな感動していて、話が聞きたいそうです」。と言われ、すぐに衣装を着直して、座敷に行きました。

 それからは質問攻めです。「いつの時代からあった芸なのか」。とか、「今演じる人は何人いるのか」。とか。研究熱心な慎太郎先生は矢継ぎ早に質問してきます。結局30分いろいろお話をして座敷を終えました。

 

 ここからご縁が付いて、年末になると先生の座敷に出演するようになりました。5年間で都合3回出演しました。2年前に体調を壊されて、その年の忘年会は亡くなりましたが、あればお伺いしていたと思います。

 このエピソードをお読みになればお分かりのように、先生は「嫌なことは嫌、いいことはいい」。とはっきりものを言う人で、実に真っ正直な人でした。演技の開始に深く頭を下げるなどと言うマナーを注意深く見る人でしたが、だからと言って媚びたり、へりくだる芸は嫌いなようでした。

 私が終始お世辞を言わず、それでいて丁寧な話し方をすることを喜んでいました。「こういう品のある話し方が江戸の芸だね」。などと言って喜んでいました。芸人の中にも、座持ちと言うことを勘違いして、見え透いたお世辞を言う人がいますが、そこの見極めはかなり厳しい人でした。

 私の知る限り、先生は、相手が対等に話をすることを嫌がりません。無論お客様に敬意を持って話すことは大切ですが、そこにこだわりがありません。実にフランクに話をします。

 むしろ強いプライドを持って話している人を尊敬する風がありました。言葉の端々から芸の蓄積や苦労を探そうとして聞いていました。こうした点、先生は政治家と言うよりも作家だったと思います。

 

 先生は、弟さんに石原裕次郎さんがいて、裕次郎さんは昭和20年代末、10代から映画の世界に入って一躍大スターになります。先生はそのころ一橋大学に行き、大学在学中に小説「太陽の季節」を出し、芥川賞を受賞。たちまち作家として活躍します。昭和31年のことです。

 その後、昭和43年には参議院全国区から出馬し、300万票を集めトップ当選を果たします。この時、応援の選挙カーには、石原軍団の石原裕次郎や、渡哲也などがずらりと並び、派手な選挙戦を繰り広げました。私も中学生でこの演説会を見た記憶があります。中学生だった私が見ても、石原慎太郎と言う人はキラキラと光り輝いていて、まったく別の世界に人だと思いました。

 昭和47年には衆議院議員に鞍替えします。それまで社会主義を標榜していたものが、このころから保守政治に動いて行き、しかも、極端な右寄りの立場を見せて行くようになります。このところの変化は私にはわかりません。

 言ってみれば大人になったのだと思います。社会主義は人を幸せにはしないことが分かったのです。そして、先生ははっきりと総理総裁を目指すと宣言をします。総理総裁になるためには、衆議院に入らなければならず、自民党に入らなければなりません。自衛隊も認め、憲法9条も改正しなければならないわけです。この先生の姿勢を非難する人は当時も今も、数多くいましたが、当人は意に介しません。間違いは間違い、改めるべきは改める。明快なのです。

 その後さまざまな大臣を経験し、本当に総理になるかと思われましたが、平成2年に衆議院を辞め、平成5年に都知事選に出て東京都知事になります。それを4期務めて引退。引退後は執筆活動をして、田中角栄氏の小説を出すなどして、ヒットを飛ばします。

 途中、都知事に落選するなどの時期もあり、必ずしも順風満帆な人生ではなかったにしろ。それでも常に日の当たる場所にいて、多くの支持者を得て、やりたいことをやって成果を上げ、恵まれた人生だったと思います。お世話になった意味も込めて、心よりご冥福を祈ります。合掌。

続く