手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 10 人生の進路を決定

天一 10 人生の進路を決定

 

 天一にとって明治13年と言うのはエポックメーキングな年になりました。先ず、自らが立ち上げた西洋奇術の一座が人気を呼び、ようやく安定して活動ができるようになりました。次に、同じ時期に、帰天斎正一、中村一登久が道頓堀で興行し、優れた奇術の数々を見せました。これに天一はいたく感動して天一は二人に憧れます。

 天一は、明治13年正月の道頓堀の奇術興行を見て自身の進路を決定したと言えます。つまり、中村一登久と、帰天斎正一を合わせた奇術師になろうと決心します。様々な西洋奇術の大道具、小道具を演じ、喋りが面白く、そして水芸を看板芸にする。そんな奇術師を目指すことを心に決めたのです。

 そのため、西洋奇術と喋りは帰天斎により多くを習い、水芸とお客様とのアドリブの喋りは中村一登久に習い。その都度、言われるままに授業料を支払ったのでしょう。そのため習ったり、接待する費用は、千日前の小屋掛けでいくら稼いでも足らなかったでしょう。

 

 実際に、帰天斎は十字架の刑などの大道具と、柱抜き(サムタイ)、を天一に教えたものと思います。天一が、十字架の刑を演じるのは、明治13年以降ですから、そっくり図面を取らせて貰い、作ったのでしょう。サムタイも、これ以後天一は頻繁に舞台に掛けるようになって行きますので、この時に帰天斎から習ったのでしょう。

 

水芸の大改良

 一登久から水芸一式を習うと言うのは簡単ではなかったと思います。と言うのも、一登久自身の水芸が未だ開発途上だったようですから、全貌を公開することは出来なかったと思います。但し、部分的な部品などは譲った可能性はあります。

 それまでの天一の水芸は、一筋か二筋の水を出たり止めたりするだけのものですから、ショウとして見せるのには派手さもなく、手数が少なすぎます。当時、天一の水芸は、舞台袖に置いてある水枕の上に助手が乗って体の重みで水を送り、細い竹竿の管を通って、毛氈や、合羽紙(かっぱがみ=紙に油を引いたもの)などで竹竿を隠し、舞台上の桶や、花瓶から水を噴き上げる式のものでした。

 人の重みで水を送る式では水圧はわずかで、一筋か二筋の水が30センチか40センチくらいしか上がりません。もっと派手に、あちこちから一斉に水が数m吹き上がる式のものにしようとするには、落差を用います。8mくらいの高さに大きな桶を置き、そこから竹竿をまっすぐ下までつなぎ、地面に着地したところで、ろくろをはめ、ろくろから各方面に竹竿を配管してあちこちから水を出すことになります。この方法も江戸時代からありました。これだと水量は大きく、水の出る個所も多くなりますからショウとしては面白いものになります。

 然し、このやり方は多くのリスクが伴います。ゴム枕なら、人が乗った時だけ水圧がかかるのですが、落差では興行中、初めから終いまで常に水圧がかかっていますので。竹竿が圧を支えきれません。無論竹竿は、簡単に割れないように、内側、外側共に漆が塗られ、外側は細かく糸で端から端まで巻いてあります。こうした竹竿を作る仕事は釣竿師の仕事で、竿の接続なども含めて大変に費用がかかったのです。にも関わらず、水圧には脆(もろ)かったのです。

 落差による水圧では竹竿が長時間持ちません。演技中に突然竹が割れて水が漏れます。また、竹竿と竹竿をつなぐ曲がり角に、ひょろと言う紙製のホースを使っていましたが、これがたちまち圧で破れてしまいます。

 ひょろとは、らせんに撒いた針金に和紙を何重にも巻き、膠(にかわ)で止めてホース状にします。中外ともに漆を塗り、防水の保護をします。そこに外側から糸をぐるぐる巻きつけてあります。これはゴムホースのようにひょろが自在に曲がるため、配管には便利です。これを竹竿に縛り付けることによって、あらゆる場所に配管することが出来ました。漆と針金、糸である程度の圧には耐えられますが、毎日水圧のかかった水芸をしていると、何日かに一度はパーンと音を立ててひょろや竹竿が破れ、あたり一帯水浸しになります。

 結局江戸時代には水芸の送水管の根本的な解決はできなかったのです。壊れては直しを繰り返して、不便な道具を使っていたのです。このため落差の式は、派手ではあっても手妻師はなかなかやりたがらなかったのです。

 それを一登久は大改良を加えます。一つは、つなぎのひょろをゴム管にすることで、格段に破損が少なくなりました。当時ゴム管は高価で、医師が使う聴診器のゴム管を買って来て、数センチ単位で切り分けて竹竿のつなぎに使ったようです。

 ゴム管を初めて使ったのは吉田菊五郎だとも養老瀧五郎だとも言う人もあります。いずれにしても、一登久もかなり早くからゴム管を使用していたようです。

 

 ゴム管を使うことで水圧に耐えうる水芸が出来たため、体に配管をして、手先や、頭から水が出るようにもできます。この発想は、養老瀧五郎もやっていました。一登久の非凡さは、手先に持った扇子で、湯呑の水を掬い取る芸(綾取り)を考えたことです。    それまで、湯呑や、刀の中心や、花瓶から水を出しても、水と水の関連性は全くなかったのです。それが、手先に持った扇子で湯呑の水を掬い、花瓶に移す動作をしたことで湯呑の水と花瓶の水がつながったわけです。しかも、その水の移動を三味線や囃子に合わせて、舞踊のような振りを取り入れたことでショウとしての効果が大きく上がりました。これによって、一登久の水芸は華麗で陽気な水芸に仕上がったのです。

 更に、一登久の工夫は、大夫や手伝いの女性の体の配管と、落差を使った大元の配管を瞬時につないだのです。大夫がほかの奇術をしていて、いざ水芸に入るときに送水管を体につなぐことは、今の時代なら難しくはありませんが、明治13年の日本にあった素材でつないで見せることは至難な技でした。一登久は曲独楽の芸から水芸を演じるのですが、それが簡単ではなかったのです。

 この時代は、曲芸も、曲独楽もみんな奇術の一種と捉えられていました。然し、落差を利用して、手先や頭から水を出す水芸を演じるとなると、体と送水管は初めからつながれていなければなりません。然し、竹竿で体をつないでいては曲独楽は演じられません。それを演技の途中で観客にわからないようにつないで見せたのです。これにより、大夫が自在に動けて、しかも他の芸から水芸に簡単に移行できたわけです。これは大発明でした。

 更に大水(たいすい=お終いに舞台一面に吹き上がる水)も、舞台床から出るだけでなく、舞台の鴨居に釣り灯籠が幾つも下がっていて、そこからそれぞれ噴水のごとく水が出たのです。上からも下からも水が出てものすごい水の量です。

 天一は、一登久の水芸を見て、唸ってしまいました。到底自分の水芸では達成できない技術であり、装置だったからです。天一は、何としても一登久の水芸を手に入れたいと思ったのです。然し、当時の水芸は最先端の奇術です。おいそれと若い奇術師に教えられるものではなかったのです。そこで天一は、ひたすら低姿勢で一登久に近づき、つながりを持とうとします。

続く