手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 11 芸の完成

天一 11 芸の完成

 

 天一は、ひたすら帰天斎や一登久の芸を見たり、道具を譲り受けるなどして、持ちネタを増やして行きます。帰天斎は、大阪の興行の後も関西方面のあちこちの劇場で半年くらい興行していたようです。天一は、帰天斎の興行先には必ず出かけて行ったでしょう。あまりに熱心に寄って来られては帰天斎も邪険には出来なかったでしょう。

 実は天一は、帰天斎の演じていた大砲術が欲しかったのです。あれこそ堂々とした天一が演じるにふさわしい演目です。然し、さすがに帰天斎もトリネタである大砲術は譲れませんでした。天一としては種仕掛けは何度も見ているうちにわかりましたが、帰天斎に無断で大砲を作ることは出来ません。

 要は、天一が演じることの許可が欲しいのです。然し、帰天斎は大砲を許可しませんでした。天一は、芸能の社会で生きることの難しさを知ります。天一は、ひたすら、帰天斎や一登久に接近し、二人の道具を買い取り同時に二人の芸を学びます。然しそれだけではどうしても超えられない一線があるのです。

 この先の話を種明かしすると、結果として天一は、一登久の水芸を手に入れます。水芸も、帰天斎の大道具も手に入れて、さぁ、この先東京に進出して華々しく日本中で興行して行けばよさそうなものですが、そうはなりません。

 天一は、明治21(1889)年になって東京進出します。その時には帰天斎も一登久をもしのぐ実力の奇術師として登場します。明治13年以降、21年までに何があったのでしょう。無論、昼も夜もなくひたすらあれこれ考えて舞台活動をしていたのでしょう。

 然し、それにしても明治13年に西洋奇術の一座を立ち上げて、その後8年間も大阪で足踏みをして東京進出の機会を待っていたことになります。天一の年齢で言うなら、明治13年は28歳です。28歳のデビューと言うのは、現代でも遅いくらいでしょう。人の寿命が50年と言われていた明治期なら相当に遅咲きの芸人と言えます。そして、東京に出た明治21年は、36歳です。明治なら中年、或いは初老の歳です。

 なぜこうまで天一は東京進出をためらっていたのでしょう。それは、恐らく、帰天斎と一登久との兼ね合いだったと思います。彼らに少しずつ自分を納得させて、彼らと悪い関係にならないように配慮しつつ自らの地位を築いて行ったのでしょう。

 天一が、大砲術を作ろうと思えば作れたはずです。しかし天一は無断では道具は作りません。同様に、水芸も道具を買い取ったからと言って、あからさまに一登久の向こうを張って勝負を挑むことはしなかったのです。終生先輩を立て続けたのです。こうした点天一は慎重であり、大人なのです。

 若いころの天一は向こう見ずで、無茶を平気でやるような男でしたが、ある年齢に達してからの天一は実に義理堅く、誠実な人柄に変わっています。これはある意味天一が越前(福井)に生まれたことに大きく関係しているのかもしれません。

 およそ天一と言う人の人生を見ていると、舞台の上でも、普段でも、行ったことのない国に行ったとほらを吹き、ヴィルヘルム皇帝の前で奇術を見せただのと、いい加減なことを言って世間をけむに巻くような人なのですが、その実天一は用意周到で、堅実な人でした。

 決して思い付きで行動せず、じっくり周囲を見て様子をうかがって、その間に実力を蓄えてから行動します。全く雪国の人のような辛抱強い性格を持っていて、根は生真面目で堅実な人なのです。そのいい例が、8年も東京進出をためらっていたことです。

 力を蓄えつつ、尊敬する先輩に嫌われないように、細心の注意を払って東京進出を考えていたのでしょう。

 

 この間に、後に妻となる、梅乃と知り合います。三越梅乃(みこしうめの)彦根藩の武士の子に生まれ、維新後大阪に出て商家で働いていました。万延元(1860)年生まれ。この時21歳。然し、梅乃が奇術が好きで自ら千日前の小屋掛けに来ていたとは思えません。私が想像するに、梅乃の兄の三越幸太郎が誘ったのではないかと思います。

 三越幸太郎は、天一の大ファンです。天一の舞台を見て、その堂々とした姿にいたく感激し、天一と親しくなります。研究家の間では、梅乃が天一を気に入りその後、晃太朗に合わせたと言う人もありますが、恐らく逆でしょう。梅乃が一人で小屋掛けの奇術を見に行くとは考えられません。何にしても、この兄妹は二人して天一の虜になったのです。

 天一いわくは、初めに梅乃が客席で見ていて、その後も何度か梅乃が必ず同じ場所にいて見ていたため気になり、休憩時間に会って話をするようになった。と言っています。恐らくその通りだったのでしょう。梅乃が天一に惚れていたことは事実のようです。天一は人に好かれる魅力があったのです。

 二人はやがて結婚と言う話になりますが、三越の家が皆大反対したようです。千日前の小屋掛けの芸人に嫁ぐと言うのは、武士の家としては許せなかったのでしょう。それを親戚一同に話をして回ったのは兄の幸太郎のようです。

 「天一は、今でこそ奇術師だけれども、元は越前藩の剣術指南役の家に生まれ、漢詩も読み、書も優れ、西洋にまで出て、奇術を勉強してきた努力家だから、きっと名を成す男になる」。等と言って親戚を納得させたのでしょう。

 いずれにしても、梅乃は天一と結ばれます。但し、この時一つ、夫婦間に約束があったようです。それは、子供を奇術師にしない。と言うものです。跡継ぎにする子供はよそから貰う。二人の間の子供はちゃんと学校に入れて、きっちり固い仕事をさせる。と言うものです。

 実際、その後、天一と梅乃の間に生まれた子供はみな固い勤め人になっています。武家社会が滅んだとは言っても、まだ明治13年は庶民の間ではそれまでの伝統的な生活は変えられなかったのでしょう。そのことは天一も重々承知していたようです。

 このことは私も経験をしています。今の和子と一緒になるときに、秋田の和子の実家を訪れて、お父さんと話をしました。お父さんは男鹿市の消防署長をしていました。お父さんは最終的に結婚を認めてくれましたが、

 「君の性格はよく分かった、結婚には反対しない。然し、仕事が奇術師と言うのがどうもなぁ。そこでね、どうだろう、消防士にならないか。消防士なら、私のコネで一人いれるぐらいのことは出来る。消防士になって、男鹿で和子と一緒に暮らさないか」。

 そう言われて、もし私が気の弱い奇術師なら、今頃は男鹿の消防士になっていたでしょう。天一の梅乃との結婚のいきさつを聞くと人ごととは思えません。

続く