手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 13 屈して伸びる

天一13 屈して伸びる

 

 明治13年の千一前での西洋奇術旗揚げ興行以降、21年の東京進出まで、天一は何をしていたのでしょうか。この8年間はほとんど資料がなく、天一謎の時代です。わずかな資料を基に、私の推測も交えてお話ししましょう。

 大道具も水芸も手に入れた天一は、これで日本一の奇術師として順風な活動を続けていたのかと言うと、どうもそうではないようです。まだ天一の行動にはいかがわしい部分が多々あって、失敗も数々しています。

 明治15年12月25日に名古屋の真本座で興行した際に、「明日、火渡りの術をする」と町に触れを出します。それを聞いて見物客はたくさん集まりましたが、一通り奇術を演じた後で、「今日は時間がないので火渡りはお休みです」。と言って終わろうとしたところ、観客が「金返せ」と大騒ぎして、終始が付かなくなり、座元と、天一が舞台で謝って、観客の前で、翌日必ず火渡りを演じる、と証文を書いたそうです。(見世物興行年表 愛知新聞の記事)

 恐らく真本座での観客の入りが悪かったのでしょう。窮余の一策で火渡りをすると触れ込んで人集めをしたまではよかったのですが、やらずに逃げることは出来なかったのです。天一はかつて、和歌山で火渡りの失敗を経験したため、その後に火渡りの仕方は調べてあったはずです。できるにはできたのでしょうが、昔の火傷の痕を衆人に晒すことは恥ずかしかったのでしょう。それでも忌まわしき火渡りを持ち出して、人集めをしなければならないほど、明治15年末の天一一座は運営に詰まっていたのでしょう。

 この記事を見ると、まだ天一は、人を集めるのに、タネ仕掛けに頼っていることがわかります。自身の工夫、自身の魅力が未だ未熟なのです。

 明治16年に京都の亀の屋と言う劇場に出演していた時に、楽屋で火薬の調合をしていた際に爆発し、顔に火傷を負い、病院に担ぎ込まれた。(見世物興行年表 京都絵入り新聞)。天一は、舞台で頻繁に火薬を使います。それを自身で調合していたようです。天一には、火難の相があるようです。なんにせよ、顔に大火傷を負っては興行も中止せざるを得なかったでしょう。

 天一は、病院のベッドで一週間くらい天を仰いで自分を見つめる日々だったと思います。それはちょうど12年前の和歌山の旅館でひと月寝込んでいた時と同じ状況です。

 世の中が悪いのでもなければ、自分が不運なのでもない。自分が未熟なのです。自身がどうにかならなければ今の状況は決して良くならない。と言うことを嫌と言うほど思い知らされたのでしょう。

 この火傷以降、天一の人間が一回り大きくなったと言えば、偉人伝にふさわしい展開になるのですが、恐らくそう簡単に人は偉人にはならないでしょう。数多くの失敗を経験して行く中で、自身が鍛え上げられて行ったのでしょう。

 

 一方一登久は、天一に旧式の水芸を売ったのち、明治15年秋に東京に進出ます。初めに横浜で二か月間興行し、反応を確かめた上で、明治16年の正月から、浅草の小屋掛けで水芸の興行を始めます。これが空前の大当たりで、正月の浅草の人出を当て込んで始めた興行ですが、日延べを繰り返し、春になり、五月に至るまで、五か月間のロングランを達成します。この時の様子を、新聞記者だった成島柳北が絶賛し、詳細に一登久の水芸や人柄を紹介しています(観幻戯記)

 一登久の狙い通り、一登久の工夫した水芸は、東京の観客には珍しく映り、また、一登久の人当たりの柔らかさ、面白さが受けて、一登久はたちまち東京でスターになります。ここから10年間が一登久の全盛期です。然し、明治21年天一が東京に進出してくると、徐々に人気が天一に移って行きます。

 まさかあの時、なにかれとめんどうを見てやった天一が、こうまで早く東京に出て来て、自分をしのぐ存在になるとは予想もつかなかったでしょう。

 

 一登久の東京での成功は天一も大阪で伝え聞いていたでしょう。無論、早く東京に出たいとは思っていたでしょうが、まだ自身の芸に絶対のものがないし、しかも、今自分が出て行っては一登久に迷惑がかかると思ったのでしょう。あれこれ思案しつつ躊躇していたのでしょう。然し、その頃、天一の成功を揺るがすような男が現れます。ジャグラー操一です。

 ジャグラー操一は、安政5(1858)年、大阪の作り酒屋の息子として生まれます。恵まれた生活の中で、奇術に興味を持ち、今日のアマチュアマジシャンのような活動をしていたのですが、明治13年に中座の帰天斎正一の舞台を見て感動し、プロを目指すようになります。こうして見ると、帰天斎の舞台は、この後の明治を代表する奇術師となる、松旭斎天一ジャグラー操一を育てたことになります。

 但し、当初の操一は、小わざのマジックに興味があったらしく、縄抜けや、メリケンハットを得意にしていたようです。メリケンハットと言うのは、明治期に入ってきた西洋奇術で、よれよれの帽子を裏表ひっくり返して見せているうちに、煙草の箱が幾つも出てきたり、絹ハンカチや、紙花、毬、カップなど、様々な品物を出す奇術で、道具立てが少なくて済むため、明治から昭和にかけての奇術師がよく演じていた演目でした。

 その先駆けとなったのがこの時期の操一の帽子の演技でした。当初は寄席に出て、話題を集めていたのですが、徐々に大道具を演じるようになり、読心術などを始めて、大きな舞台に出演するようになります。そして、いつしか、天一と同じように東京進出を考えるようになります。

 天一が、自分自身をどの程度の奇術師と考えていたかを推測すると、一登久よりも、帰天斎よりも、奇術師としては優秀だと自負していたと思います。それは、一登久が曲独楽師としてのスタンスを生涯持ち続けていたところから、一登久にとっての奇術は片手間の余技であったと思います。同様に帰天斎も落語家が本業だったわけで、喋りの面白さは絶妙であっても、やはり奇術は余技であったと思います。

 そうした先輩から比べたなら天一の技は、音羽の師匠から手妻を習い、ジョネスから西洋奇術習い、技はより本物だったと思います。然し、ここに強力なライバルが現れます。操一は金持ちの息子で、幼くして、西洋奇術の訳本などを買ってもらい、大阪で奇術好きの仲間と交わって奇術の研究をしていたのです。生まれついてどっぷり奇術に浸かって育っていたのです。

 その頃天一は、山伏にくっついて、狐落としを習ったり、異人妾にうつつを抜かして剣渡りをしていたのですから、スタートからして差がついています。

 それでも初め、天一は操一を大した奇術師とは思っていなかったようです。それが、大舞台に出るようになって、演技をつぶさに見てみると、自分よりもはるかに奇術師としての腕は優れていることに気付きます。天一は内心恐々としたでしょう。しかもその男が虎視眈々(こしたんたん)と東京進出を狙っていたのです。

続く