手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 12 東京進出まで

天一 12 東京進出まで

 

10年の思い

 私が「天一一代」を書き上げたのは2012年でした。それから9年。今回、もう一度天一一代を読みなおしつつ、天一の足跡を書き綴ってみると、話の内容は大きくは違わないのですが、私自身が年齢が経っていますのでその時その時の天一がどう考えたかと言う心の動きがよく分かるようになりました。

 日々、必死で生きていた天一でしたが、私自身の人生と比べて眺めて見ると、なおさらその時の天一の心の動きがより鮮明にわかります。これは新たな発見です。実際天一は60歳で亡くなっていますが、今の私は66歳です。天一以上に長生きした者が天一を見ると、また新たな発見をするのが不思議です。物を書くと言うことはこうした楽しみ方もあるのかと実感します。

 

天一 12

 さて、千日前の興行を終えて、天一は、二月、三月と大江橋の小屋掛けで西洋奇術をしています。この時は音羽瀧寿斎で出ています。この後心機一転、松旭斎天一と名を変えることになります。帰天斎から大道具小道具を譲り受け、内容は充実してきましたが、まだ大砲術は入手出来ていませんし、水芸も旧式のもので一登久のような華麗な装置にはなっていません。

 先輩たちの西洋奇術と比べると、これはと言う得意芸が育っていません。何とかしなければいけないと、日々苦悩していたことでしょう。舞台は忙しくなっても、まだまだやらなければならないことが山ほどあったのです。

 

 一方帰天斎はこの後数年、大舞台で興行しますが元々寄席から出てきた人ですし、帰天斎の得意芸は話術です。1000人の劇場よりも200人くらいの寄席のほうが帰天斎本来の面白さが伝わります。しかも大きな劇場は当たりはずれも大きく、大阪の時のような空前の大当たりはその後は望めなかったようです。

 やがて帰天斎は大道具を演じることを止めて、手伝いの数も減らして小さな劇場に出るようになります。そうなると大道具を抱えきれなくなり、一つ、また一つと天一に譲り渡して行きます。然し、大砲術だけは譲りません。帰天斎もこれだけは相当に愛着があったのでしょう。これを譲るのは明治21年以降です。

 

 一登久はどうでしょう。実は、一登久は、正月の道頓堀で帰天斎の人気に敗けたことがよほど悔しかったようです。いち早く西洋奇術を覚えて大舞台に掛けたのは一登久が先です。元々曲独楽を得意にしていて、日々道具の改良に余念のなかった人ですから、一作、一作が自分の考えが入っていて独創的です。陽気で喋りも達者でお客様を飽きさせません。人としての魅力も十分にあったと思います。

 一登久からすれば、東京で帰天斎が噺家をしていて全く食えない時代があったことを見ていたはずです。そして、苦し紛れに奇術師になった時も、やっていることは全くの素人芸にしか見えなかったと思います。喋りもおかしな西洋なまりを真似て笑わせていますが、それは流行語のようなもので話芸とは言えません。いつか飽きられるでしょう「こんな芸で売れるわけがない」。と思っていたはずです。

 一登久からすれば帰天斎は全く相手にするような芸人ではなかったのです。それが大阪にやってきて話題を独占して行きます。どうして帰天斎に敗けたのか、一登久には見当もつきません。

 これは私も経験のあることですが、人の人生には大きな波があります。売れ出した時の芸人は何か神がかったような勢いがあって体からオーラが出ていて、何を言っても面白く、何をやっても許され、無敵の力を発揮します。どんな芸のある先輩でも、不思議なことをする奇術師でも、物ともしないような力が備わるのです。一登久は運悪く帰天斎のピークに遭遇してしまったのです。

 一登久は東京進出を考えます。「あんな芸で成功するなら、自分が東京に出たならきっと帰天斎を超えられる」。なんとしても、芸の実力を見せつけて帰天斎を見返してやりたかったのでしょう。

 この時点で一登久は30代末です。明治16年に東京進出を果たしますが、その時40歳です。40歳にして東京に出て、名前を、一徳から一登久に改名します。名前を変えてまで心新たに東京進出に挑んだ一登久の心の内は、よほどの思いがあったのだと考えます。遅咲きどころか最晩年の決断と言えます。

 道頓堀以後一登久は休む間もなく水芸の改良に入ります。東京に出るとなると今の水芸ではまだ不十分です。もっともっと人が目を見張るような水芸にしなければなりません。衣装も自分自身のみならず弟子、手伝いに至るまで、豪華できれいな衣装をそろえたいと考えました。一座が仮に20人いて全員が東京に出るとなると、旅費や、宿泊費など費用がかさみます。そうなると相当に大きな資金が必要になります。

 その資金をどこで調達するかと考えた時に、天一に旧式の水芸を譲って新規に自分のアイディアを加えた装置をこしらえ、東京に出ようと言う考えに至ります。

 そこで天一に相談を持ち掛けます。天一は一登久から水芸を譲ってもいいと聞かされたときには、我耳を疑ったことでしょう。こうも易々と願いが達成されるとは思わなかったはずです。但し、使用許可料と装置代金は当時の天一にはとんでもなく大きな金額だったと思います。然し、機を見るに敏な天一は、これを逃してはチャンスは来ないと判断してすぐに買取を了解したことでしょう。あちこち金策に走って、方々頭を下げて回ったことでしょう。大きくなると言うことは、人に頭を下げて味方になってもらうことなのです。

 恐らく天一が一登久の水芸を譲り受けたのは、明治14年でしょう。一登久は明治15年秋には横浜に出て興行していますので、その前年までには支度金を用意しておきたかったと思います。天一にすれば、明治13年の道頓堀の興行を見た時には、到底追いつけないと思った二人の先輩の芸が、それぞれの思惑から思いがけずも天一の望む方向に進んで行きます。天一は自身の運の良さに驚いたのではないかと思います。

 実際天一は幸運の持ち主です。この先もずいぶん運に助けられます。

続く