手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

独自の世界を作る 6

 高円寺の立ち飲み屋さん

  話は少し前になりますが、以前立ち食いそば屋さんだった店が大風で倒壊した話を書きました。その後どうなるのだろうと思ってみていると、新しい店が出来ました。立飲みの居酒屋です。何しろ奥行き1mしかない店ですから、できる商売にも限りがあります。立飲みならちょうどいいでしょう。

 実はこの情報は、お店の関係者だと思しき方から昨日、私のブログにお知らせいただきました。めでたいことです。実は私もたびたびお店の前を通っているので、店が立飲み屋さんになったことは知っていました。10日くらい前にオープンしたようです。ビールが500円、ハイボールが400円で、つまみがそれぞれ200円です。すなわち、つまみ一品、ハイボール二杯で1000円で気持ちよくなれるわけで、高円寺にふさわしい格安の店です。

 早速飲みに行きたいと思いますが、私は直腸の手術後ですので、2週間はアルコールが飲めません。今もじっと我慢しています。来月4日以降に解禁されますので、そうしたらお店に行ってみようと思います。陽気もよくなりましたので、半野外で飲む酒も結構楽しいと思います。今から楽しみです。

 

独自の世界を作る 6

 5、パーソナリティを備えている(後半)

 バブル以降のお客様の好みと言うのが少し変わってきた。ということは仕事の流れで実感していました。前にも書きましたが、平成になると、私に講演の依頼が頻繁に来るようになったのです。講演と言うのは、始めに、40分ほど手妻の歴史とか、水芸や蝶などの手妻の作品についてお話しします。時には、古い芸能をいかに残すか、とか、若い人にいかに手妻を継承して行くか、と言ったこれまで苦労してきた話を講演します。

 これは伝統産業を残そうとしている職業の方々には多少役に立つ話のようです。また後継者不足で悩んでいる産業をしている人にはヒントになるようです。いずれにしましても私がこれまでしてきたことを面白おかしく話をします。これは結構好評でした。そして後半は、30分ないし、40分手妻を演じる。と言うものです。

 およそ講演などと言うものは、役所や銀行が主宰して、経済学の先生が出てきて、経済の流れを語ったり、株式投資の話をしたり、財産の有効活用を話したり、そんな話が多いのですが、かなり難しい話が多く、参加者の中には退屈する人もかなりいらっしゃるようなのです。そこで毛色を変えて、芸能の話をする人たちを招きます。落語であったり、講釈であったり、永六輔さんのような文化人であったり、老舗旅館の女将さんであったり、多彩な講師陣が続々生まれてきました。手妻もその中に加わったわけです。聞いたこともない芸能がどのように活動し、後継者を作っているのか。興味でやってきて、そして蝶の飛ぶ姿を見て喜んで納得して帰ってくださいます。幸いに好評で次々に依頼が来るようになりました。

 銀行主催の株式投資や経済の動向を語る講演に来るような人たちは、相当生活水準の高い人たちで、こうした人たちは、単純に漫才、落語と言うような演芸番組にはなかなか来ないのです。当然手妻の公演も見に来ません。

 ところが、それがカルチュアーだとなると急に興味を示します。江戸の文化の中でマジックを語ると興味につながるのです。西洋のマジックと日本の手妻はどう違うのか、などを解説をすると、とても喜んで聞いてくれます。

 つまり彼らは、手妻ももちろんですが、その沿革にある江戸文化に興味があるのです。そこをきっちり語って聞かせたなら、十分仕事として成り立つわけです。昭和の時代なら、手妻は手妻だけを見せていればよかったのです。平成になると、文化を語りつつ手妻を演じなければならなくなったのです。

 こんな活動は、私の師匠連中、すなわち明治大正生まれの手妻師には絶対にできなかったでしょう。彼ら彼女らは、手妻がいつ生まれて、どう発展していったかなど全く知らなかったのです。ただ、師匠から習った芸をそのまま演じていただけだったのですから。講演はまったく新しい形の仕事場なのです。

 私はそうした仕事場を得るために古い文献を調べ始めました。調べて行くうちに、手妻がどういった発展をしてきたかを知ったのです。初めは単純に仕事に役立てようとして研究していたことですが、いつしかそれはライフワークになりました。幸い講演も新たな仕事場として順調に増えて行きました。

 収入としてはさほど大きなものではありませんでしたが、そこで知り合ったお客様から、その後、パーティーなどの仕事をいただくなどして、随分仕事の幅が広がりました。この活動から多くの人脈を得たのです。

 

 話を戻しましょう。昭和から平成に変わると、お客様はかなりシビアに芸能を選別してみるようになって行きました。何の理由もなくただマジックだからと言って演じていても、それは興味の対象にならなくなって行ったのです。

 どういうことかと言うなら、例えば、パーティーにマジシャンを頼んで、その人が燕尾服を着てカードや鳩を出したとします。昭和ならそれがマジックなのだと単純に了解して見ていたでしょう。然し、平成になると、「なぜマジックをするのに、燕尾服を着なければならないんだ」。と否定的な見方をするようになりました。存在そのものに疑問を持たれるようになったのです。

 それは燕尾服がいけない、カードがいけない、鳩がいけないと言っているのではないのです。例えばマジシャンが、「これは文化なのです。19世紀に発展したマジックは様式が美しく、洗練されています。私はそうした西洋文化の花咲いた時期を再現すべく演じています」。と言えば人は納得します。

 燕尾服を着て、文化を語れるなら、みんな納得なのです。それを理由もなく、マジックだからと言って燕尾服を着て、シルクハットを持って、ステッキを抱えて出てくるのが不自然と見られるのです。

 そのことはそっくり手妻も同じなのです。ただ着物を着て、おかしな見得を切って、闇雲に傘を出すマジックをされて、それが和妻だと言われても、アッパークラスの生活をしている人には、その演技のどこにも和の文化が感じられないことはバレています。「この人、何がしたくて、こんな格好でやってきたのだろう」。と怪訝な顔つきで眺められてしまうのです。

 残念なことですが、多くの芸能は、その内容のなさから芸能として認められなくなっているのです。これなら見てみたい、これならいい芸能だと認められている芸能は極めて狭く細い道をくぐって、選別された上でなければ生き残れなくなってきているのです。

 私は、マジシャンが、カードを出す、或いはカードを一枚引いてもらう。それをする以前に、自分がマジシャンとして世間から認知されているかどうかに早く気付くことが大切だと思います。今やっているマジックを本当にお客様が求めているのかどうか、出て来ただけで既にお客様に失望を与えているのではないか。

 よく自分をビデオで撮って眺めてみる必要があります。マジックをマジックの世界の中だけで見ずに、客観的に自身を眺めてみることが必要です。不自然を不自然なまま気付かずに、間違いを間違いとして気付かずに繰り返していて、本当に仕事が来るのかどうか。自身を見直す必要があります。

 

 昭和が終わり、平成になった途端、バブルが弾けて日本中が苦境に陥り、マジシャンも随分困窮しました。それが令和になるといきなりコロナで芸能を窮地に陥れています。過酷さと言う点では、平成のバブル崩壊以上の試練と言えます。令和を生き延びるにはこの苦境を解決しなければなりません。簡単ではありませんが、マジシャンの知恵でしのぐほかはありません。

独自の世界を作る 終わり