手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

流れをつかむ 2

流れをつかむ 2

 

 バブルがはじけたと感じたのは平成5年の5月からでした。5月6月7月と。事務所にいて一本もイリュージョンの仕事がかかってきませんでした。昔からのお付き合いの小さな仕事は時々来ます。しかしそれではチームを維持することはできません。当時男2人女性2人を給料で抱えていました。他に女房の給料も出さなければいけません。然し全く仕事が来ないのです。

 「まぁ、夏になれば大きなイベントも来るだろう」。と高をくくっていたのですが、大した本数が来なかったのです。

 バブルは平成元年からはじけていたのですが、当初はまったく他人事でした。と言うのも、芸能の世界では仕事はまったく減ってはいなかったからです。なぜ芸能の世界だけが無事だったのかと言うなら、バブル時代に企画した、会社の本社社屋や、市民会館などが平成になってからどんどん完成していったからです。

 新しい建物ができたなら、記念式典をします。どんな小さな会社でもホテルを借りて記念パーティーをします。そこにタレントが出かけてショウをします。まだまだホテルも、タレントも仕事をたくさん抱えていたのです。

 怪しくなりだしたのは平成4年の中ごろからでした。徐々に仕事の量が減ってきました。それでも多くの芸能プロダクションは、まだなんとか生きてゆけると考えていたのです。

 

 この時期に私の会社は3つの大きな出費をしていました。一つは、会社の維持費です。アシスタントを社員にして、毎月給料を支払っていたのですが、これが年額で1500万円ほどあったのです。仕事が減ったために、これが支払えなくなりました。

 二つ目は、SAMの日本地域局を維持していたことです。SAMとはマジックの世界的な団体です。平成2年に日本の地域局を設立して、日本中のアマチュアさんやプロに声をかけて、700人の会員を集めました。

 年間1万円の会費を集めて年に一回世界大会を開催し、年に6回雑誌を発行していました。大会は毎年別の都市で開催していたのですが、これが大きな出費を余儀なくされました。全くマジックの世界大会を知らない地域でいきなり300人以上の大会を開催するわけですから、実際人が集まるかどうかもわかりません。まるでギャンブルのような企画です。当然赤字も出ます。

 それでも景気のいいときには、私が個人的に100万円とか150万円くらいまでは補填していました。それがバブルがはじけると、補填ができなくなりました。SAMをどうするかは喫緊の課題となりました。

 

 もう一つは、リサイタル公演です。毎年「しんたろうのマジック」と題して自主公演を続けてきました。さらに若手のための公演もしてきました。その公演の経費はまったく私の自費で行ってきました。18回目の「しんたろうのマジック」は昭和63年に公演し文化庁の芸術祭賞をもらったのです。そこに行くまでに18回の公演をしていたことになります。

 然し、公演は費用がかかります。新作のマジックを作る。アシスタントの衣装を作る、会場費、宣伝費、色々合わせると一回に200万円かかります。

 SAMの赤字、リサイタルの出費、アシスタントの給料。どれも私の会社を大きく圧迫していました。何とかしなければなりません。当の私は、「何とかなるさ」。と思っていました。毎日娘がシャボン玉をやりたがって、事務所に降りてきます。その娘と4階に上がって、シャボン玉をします。これが気晴らしになって結構楽しいのですが、のんびりしていては間違いなく倒産です。

 このとき、赤坂の事務所の社長の姿が自分と重なって見えました。あんなに立派な容姿をした人だったのに、最後に見たときには見る影もありませんでした。誰も好き好んでああなったわけではありません。

 何を間違えたのでしょうか。世の中の大きな流れが変わったことに気付かなかったのでしょう。もう昭和は終わったのです。平成5年に至っても昭和を引きずっていたのです。社長に言って聞かせているのではありません。私自身が気付かなければいけないのです。何とかしなければなりません。

 結局、アシスタントは仕事のたびごとにパートとして支払うように切り替えました。SAMは赤字分を雑誌の発行を減らすことで切り抜けました。リサイタルは、新たな道具製作を減らし、リサイタルのみ年に一回公演することにしました。これで何とか会社を維持してゆけるようになりました。

 

 そして翌年平成6年に25回目のリサイタル公演をしました。新宿の107スタジオで二日間公演しました。二日間満席になりました。内容は、スペースイリュージョンと、和は水芸まで演じました。これが幸いにも二度目の芸術祭賞受賞につながりました。私にとっては有り難かったのですが、どうも素直に喜べませんでした。

 と言うのも、今の不況を経費削減しただけで本当に乗り切ってゆけるだろうか、と疑問が生まれたのです。確かに赤字は止まりました。然し、将来何をしていったらいいのかが見えません。今の内容を続けて行っていいなら簡単なことです。でも、仕事の本数が減っている本当の理由は私のショウ自体に問題があるからではないかと気付いたのです。

 

 この時期、芸能界に不況が吹き荒れていたにもかかわらず、狂言から泉元彌さんが出て来たり、雅楽から東儀秀樹さんが出て来たり、これまでおよそ注目されることのなかった和の世界からスターが出てきています。この人たちは、本来の古典芸能を継承しつつ新しい活動をしています。平成の芸能はある意味古典に回帰していました。

 翻って、手妻を見ると、手妻はまだまだ古典芸能として認知されていません。何が手妻なのか、何を残し演じてゆくべきなのか、曖昧模糊としていました。もっともっと手妻をきっちり伝えることが私の役目なのではないかと思うようになりました。無論、芸術祭参加公演で水芸や蝶などを演じて来たことはその一環なのですが、もっともっと和の本質を語るべきなのではないかと思うようになったのです。ここから手妻の研究が始まりました。

続く 明日はブログはお休みです。