手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

流れの変化

流れの変化

 

 さて、今日(28日)恐らく、緊急事態宣言が延長されることになるでしょう。これで、緊急事態宣言は更に三週間延長されることになります。

 困りました。ほとんどの芸能人は舞台活動がずっと止まったままです。多くの若いマジシャンはマジシャンとして生きて行くことを諦めています。出演のチャンスがないのですからそれも当然のことです。

 私もそうした人たちに何か勇気づけられる活動は出来ないか、といろいろ工夫して自主公演を催したりしていますが、私の出来ることなど小さなことばかりです。とても多くの人を食べさせて行くことなど出来ません。

 

 思えば時代の変わり目には大きな変化が来ます。令和になった途端の令和2年からいきなりコロナ騒動が始まったのは象徴的な出来事でした。

 31年前は、平成元年からバブルが弾け、世間の会社が倒産しだして、平成5年には大不況がやって来ました。これまで経験したことのないような不況が、平成10年近くまで続いたのです。今ではその時代を失われた10年とか、20年とか言いますが、別段何もかも失ったわけではありません。浮かれたバブルの時代から、日本人は反省をし、自分を見つめなおす時代が来たのです。実際、平成5年から10年くらいまでは芸能は、不況で、仕事が少なくてみんな困りましたが、そうした中にも活路はありました。

 バブルの時代には大きく派手なイリュージョンショウがもてはやされましたが、平成に入ると、超魔術が流行し、それに少し遅れてクロースアップマジックが流行り出しました。まるで恐竜時代が終わった後に、恐竜がトカゲや鳥に変化して生きて行ったようなものです。サイズの仕切り直しをしたのです。

 同時に、日本人が、自分自身を見直すことに価値を見出して行った時代でもありました。歌舞伎や、能、狂言、落語と言った古典の芸能が急激に観客動員を伸ばし始めました。

 能などは、それまで年に数回、愛好家のために公演していたものが、急に世間に認知されて、重要が伸びて、薪能(たきぎのう)と言う、奇妙な形式の能が日本各地で開催されるようになります。能は昔から昼に演じられていたものが、わざわざ薪を焚いて、夜に演じるようになります。それが幽玄でいい。とお客様が喜び、神社の敷地内で入場料を取って行う能が流行し始めました。

 日本人が歌舞伎や、能に入場料を支払って見に行く時代が訪れたのです。落語も同様でした、一時期、寄席の観客が減少し、落語は低迷を続けました。落語家自身が「もう落語自体、世の中に認められることはないのではないか」、などと寂しそうに語っていた時代がありました。それがなぜか急に寄席に人が足を運び始めます。平成はそんな風に古典に回帰した時代でした。

 当然手妻もにわかに忙しくなりました。そんな時期に私は、イリュージョンから手妻に仕事を転換したわけですから、仕事は順調に伸びて行きました。この時、着物を着て手妻をすればいい仕事にありつけるのではと考えて、和妻、手妻に走った人がいました。とりあえず着物を買ってきて、傘を出せば仕事になると考えたようですが、恐らくそう恵まれた仕事は手に入れられなかったのではないかと思います。

 この時代の日本人が求めた和は、和風ではなく、和テイストでもなく、本物の和の文化だったのです。日本人は、着物を着て傘を出す芸能を求めていたわけではなく、和の本質は何なのかを語ってくれる芸能を求めていたのです。

 当然のごとく、和の文化がわかって、手妻の研究していた人でなければいい仕事を手に入れることはできませんでした。着物を着て傘さえ出せばと言う思い込みで和の手順を作っても、うまく行かなかったと思います。

 

 さて、私とすれば何とか、和の文化を理解してくれるお客様が増えて、そうしたお客様を相手にこのまま人生の晩年まで逃げ切れるかと考えていた矢先のコロナでした。世の中はそう甘いものではありません。時代が変わると、次の時代には決まって、未熟な部分を指摘されます。特に今回のコロナ禍では、徹底的に叩かれました。

 ここで世の中の人が何を求めているのかが読み切れなければ、生き残れません。結局幾つになっても原点に引き戻されて、いかに生きるべきかを問われます。特に今回のコロナ禍の試練は芸能そのものが存続できるかどうかの選択を迫られています。これほど厳しい時代が来るとは予想も出来ませんでした。

 思えば、平成の末から令和にかけての10年は、盤石な安定感を持って活動していた業種が、急激に不安定な立場に変わって行く時代だったように見えます。

 デパートはネット販売に押されて売り上げを下げています。テレビは、インターネットに押されて視聴率を下げています。新聞も同様にネットに押されて、発行部数を下げています。自動車も、今は最高売り上げを達成していますが、この先は不安です。なぜならみんな自動車を買わなくなっています。

 日本自体が、この50年間、なぜ豊かに生きて行けたのかと言えば、自動車が売れたからです。自動車は裾野の大きな産業で、自動車一台が売れると言うことは、エンジンが売れ、ラジエーターが売れ、クラッチ、ブレーキなどの機械部品が売れ、ヘッドライトが売れ、ラジオが売れ、クーラーが売れ、ナビが売れ、様々な電気器具が売れます。タイヤが売れ、ガラスが売れ。応接セットが売れます。

 製造業のあらゆる産業が、一台の自動車に乗っかって売れまくったのです。日本人は自動車に着目して、自動車業界が世界の信頼を勝ち取ったことで、多くの日本人が生きて来れたのです。

 戦前の日本の産業は、絹や繊維産業が主流でした。繊維製品を除くと、おもちゃだとか、マッチだとか、大した産業はなかったのです。戦後になって造船が栄え、同時に電気製品の、トランジスターラジオや、テレビが売れました。

 然し、何といっても自動車が売れたことが日本を大きくしたのです。世間のみんなが欲しがるようなもので、一つ100万円以上もする品物は他にはないのです。それがコンピュータの台頭で、これまでの価値観がどんどん変わって行きました。

          

 起業家は、自動車やコンピューターに代わる、一つ100万円以上出してもみんなが欲しがるような機械を探して血眼になっています。でも今の日本人の若い人たちは、自動車を欲しがりません、コンピューターもそこそこのもので満足しています。服にも小物にもブランドを求めなくなっています。みんな地味な生活に馴染んでいるのです。

 その人たちから100万円を引き出せる品物があるでしょうか。どうも物はどんどん価値を下げています。物には限界が見えています。ここらで発想の切り替えが必要なのでしょう。100万円の物ではなく、別の価値観を考える必要があると思います。そのことについてはまた明日お話ししましょう。

続く