手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロで生きる 3

プロで生きる 3

 

 キャバレーでショウをしていた時は、カードの手順5分とゾンビ4分をそのままくっつけて、間に喋りのマジックを7分入れて15分、と言った、全く工夫のない手順を作って演じていました。鳩出しは鳩出しそのものが10分。その後に12本リングを演じて5分。併せて15分と言った手順です。

 一見これは手順に見えて、実は手順ではありません。これは道具の羅列なのです。細かな部分部分に私の工夫はあったとしても、本当の意味での手順になっていないのです。然し、その後、チームを作って、40分、60分と言った、大きなショウを単独で行うようになると、演技全体の世界観を求められるようになりました。マジシャンは演技全体を通して何を語ろうとしているのか。それがはっきり見えないと、イベント会社も私を売り込むことが出来ないのです。

 例えば国内の博覧会に2週間出演する、或いは遊園地に40日間出演する。などと言う企画に売り込むためには、女性を箱に入れて剣を刺す。と言うだけでは売り込むことは出来ないのです。遊園地のポスターにメインで私のイリュージョンショウを載せるにも、剣刺しだの、棒の先で女の子が浮いている写真を載せただけでは、一般客の関心を集められないのです。

 私が、大きな編成を作って、大道具を駆使して、大きな仕事がしたいと考えていても、道具を大きくしただけでは大きなイベントに売り込むことは出来なかったのです。そこで、遅ればせながら、60分ショウのグランドデザインを作る作業に入りました。全く泥縄の仕事ですが、当時は、グランドデザインを考えて仕事をするようなマジシャンはまだいなかったのです。そうなら先にやったものが勝ちです。

 私は道具作りや、全体構成を工夫しました。20代末から30代まで、朝から深夜までひたすら作り続けました。無論、ステージに立って仕事をしながら、深夜に自宅に帰って来ると、アトリエに籠り、台本作りや、道具作りをするのです。

 夜中に道具作りをして、朝になると、又舞台の仕事に出かけて行きます。今考えれば、よくそんな仕事が出来たと思いますが、その時は何でもなく出来ました。とにかく独自の世界を作り上げたかったのです。

 道具はすべてメッキをかけ、銀色と黒のモノトーンで統一しました。良くマジシャンが使う赤や黄色のサーカスのようなカラーの道具をやめて大人の世界を演出しました。同時に近未来の世界を作ろうとしました。衣装は宇宙服をイメージして、銀色の燕尾服を仕立てました。道具はただ押して出してくるのではなく、ところどころにロボットが出現して、古い映画の「メトロポリス」に出て来るロボットのお面を拝借して、未来都市をイメージしてみました。そんなイリュージョンショウはどこにもありません。熱烈な買い手が付くようになりました。狙いは当たって、私のチームは忙しくなりました。

 それが昭和60年ころのことです。バブルの絶頂期でした。その頃キャバレーはとっくに廃れてしまい、日本中に3万件もあったキャバレーが跡かたなく消えていました。そこで仕事をしていたタレントは仕事を失い、多くは廃業をしました。

 傍から見たなら私の仕事は、一人でスライハンドをしていたマジシャンが、道具を作って、アシスタントを使って大道具のショウに鞍替えしたように見えるでしょう。でも大道具を増やしたからと言って、大きなイベントで使ってもらえるわけではないのです。細かく全体のイメージを作り上げて、他の人がまねできないような世界を作って見せなければ売れないのです。

 その後バブルが弾けて以降、私はイリュージョンから、手妻に移行して行きました。伝統奇術です。これは子供のころから習っていた日本の奇術を、私なりに再度組み直して手妻の世界を作ってみようと考えたのです。蝶や、水芸迄取り入れて、江戸時代から明治にかけての手妻の興行(公演=ショウ)を再現すると言うのがコンセプトです。

 バブルが弾けて、イリュージョンの仕事が減ってから、私は地方自治体や、国のイベントをするようになりました。そこで仕事をするには、伝統芸を残す。と言うテーマを持つことは大切で、ただ手妻を演じるんではなく、セリフから、動作から、マナーからきっちり当時のマジックを再現して見せ、独自の世界を展開する、と言う活動を始めたのです。

 30代末から40代にかけて作り上げた手妻の世界は当たって、今では私の活動のメインになりました。私が数々の賞をもらい、手妻が認知されてからは、何人も、着物を着て傘を出すマジシャンが増えて行きました。和の芸は一度は無くなりかけたのですから、それを残そうとする人が出てくるのはよいことです。

 但し、手妻、和妻を演じようとされるなら、先ず、古い型を学び、古典を維持しつつ、現代の手妻を模索する姿勢がないと、古典を全く知らない人が手妻をしても、それは手妻ではありません。

 私は手妻をしたいと習いに来る人には基礎から指導をしています。別に手妻は秘密の世界ではありません。やる気のある人なら教えています。きっちり習えばそれなりに厚みがあって、かなり高いレベルが習得できます。我流の手妻と言うのは存在しません。歴史があるから手妻なのです。

 

 少しクロースアップの話をしましょう。昭和60年代まではクロースアップで生活のできる人などほとんどいなかったのです。それが、平成になった途端。テーブルホッピングが流行り出し、あちこちのレストランや、カフェバーなどでマジックを見せる人が増えて来ました。クロースアップは最も新しいマジックの職業と言えます。それだけに、クロースアップと言うものがどこに到達点があるのかがいまだに見えません。

 例えばクロースアップの専門劇場が出来て、毎日そこでクロースアップを見せるマジシャンがいて、連日たくさんのお客様がいる。そんな場所が出来たなら、クロースアップマジシャンは成功したと言えるでしょう。

 あるいは、かつてのマックス・マリニーのように、金持ちだけを相手にして、金持ちのパーティー専門に活動して、大きな収入を得る。そんなマジシャンが出て来たなら、これも成功の部類でしょう。

 何にしても、クロースアップの何を観客が求めているのか、その売りとなる演技を自分が持っていて、観客の方が押し掛けて見にくるようでなければ、クロースアップは確立されたとは言えないと思います。ただ、どうも私の見るところ、クロースアップは、どんどんそうした道から外れて来ているように見えます。そのことはまた明日お話ししましょう。

続く