手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジシャンレース 2

マジシャンレース 2

 

 周囲の仲間がどんどん売れだし、私自身は一体何をどうしたらいいのか、内心焦っていました。それが、自主公演が評価され、芸術祭賞の受賞をしました。昭和63年、私は33歳でした。

 私はついぞ、今に至るまで、テレビで知名度を上げることは出来ませんでした。20代から今日まで、テレビは時々出演する程度で、レギュラー番組などは頂いたことはなく、何とかテレビで認知されたいとずっと考えていました。マギーさんや、ナポレオンさんと比べると、私はどこかとっつきにくい顔をしていたのでしょうか。

 内心、舞台人として成功しないのではないかと言う不安が常に付きまとっていました。一方、そうした思いとは逆に、舞台活動は忙しく、収入にも恵まれていました。然し、仕事は浮気ですから、いつ飽きられるかわかりません。生きて行く上で何か確証が欲しい。何とも不安定な状況で日々を送っていました。

 そんな時の受賞で、ようやく生きて行く方向を見つけた思いがしました。ショウの内容は、トークマジック、スライハンド、イリュージョン、手妻、お終いは水芸を、生演奏で、新曲発表しました。今考えるとやり過ぎなくらい、目いっぱい詰め込んだショウでした。

 直接の受賞は、矢張り、手妻を残そうとして、これまで、装置を作ったり、演出を加えたり、音楽の作曲依頼をしたり、と、地道に投資してきたことが評価されたのだと思います。

 昭和63年の芸術祭参加公演は、8月に昭和天皇が倒れられて、日本国内は陛下のために祝い事を自粛をして、夏からずっと、ショウの依頼がパッタリ絶え、ホテルのパーティーの依頼が一切来なくなり、スケジュールが来年まで真っ白な状態でした。当時私は東京イリュージョンと言うイリュージョンチームを持ち、アシスタント4人を抱え、道具方一人を雇い、全てに給料を支払っていました。

 それが全く。先の仕事が見えなくなったのですから、不安でした。ちょうど今のコロナ騒動と同じような状態が約半年続いたのです。そんな中での自主公演でしたので、本来公演をできる状態ではなかったのです。受賞したことは何倍も嬉しいことでした。

 

 この受賞で私は自分の役割と言うものをうっすらと理解しました。いずれにしても私のやっているマジックは、マスコミに乗りにくい内容です。人それぞれの人生があって、タレントになって知名度を上げる人、ひたすら技を磨いて一芸の名人になる人、稼いで収入を上げる人。いろいろなマジシャンが存在します。どういう生き方が成功なのかは一概には言えないのです。

 私の場合は手妻を発展継承して行って、後世に残して行くことが大きな仕事の柱であると理解しました。理解はしましたが、この先手妻を維持することは簡単ではありませんでした。特に、平成5年にバブルが破綻してからは、頼みの綱のイリュージョンの仕事がパッタリなくなり、チームそのものが維持できなくなり、えらい苦労をすることになります。

 

 話は前後しますが、平成になるとすぐに、ミスターマリックが超魔術で売り出しました。マリックさんのことは良く知っています。スライハンドをさせたらとにかく巧くて、四つ玉でも、鳩でも、ダンシングケーンでも、何でも出来る人でした。

 負けず嫌いな人で、自身が背が低いことに強いコンプレックスを持っていました。その反動で、フラフープのリンキングリングをはしごの上に乗って演じて見せると言うような、変わった演出をしていました。当人は「体が小さくても、舞台を大きく見せることが出来る」。と言っていました。

 とにかくいろいろなことをする人で、胴切りを蒲鉾の板をかぶせないで布を覆っただけで胴を切って見せたり、常に工夫をしていました。今考えると、あらゆるマジックを手掛けて、何とかなりたい一心だったのだと思います。

 若いころからキャバレー出演などしていて活動していたようですが、仕事に恵まれなかったのか、デパートのマジック売り場のディーラーをするようになり、その後はマジックショップを経営していました。舞台はその合間に出ていたようです。

 私はマリックさんとは10代の頃から、何度も合って話をしました、店でも、喫茶店でも、話の内容は、マジックのアイディアの話が多く、自身が見つけてきた新しいアイディアの作品を見せてくれることも多く、勉強熱心な人だと思いました。

 ただ、マジックと言うものを種仕掛けでしか捉えていなくて、マジシャンの持つ魅力とか、話の面白さなどと言うものは話の中から一切出てこない人でした、そうした点、私より4つ年上の人ではありますが、何となく「アマチュアなんだなぁ」。と言う印象は強く感じました。

 舞台でもクロースアップでも、当時のマリックさんの演技は、とにかく、目の前に起こった不思議が全て、と言う人でした。次から次へと不思議を見せること、それがマジックショウだと信じているようでした。私は「それではお客様が疲れてしまう」。マジシャンなら不思議を見せることは当然ですが、「まずお客様に好かれなければどうにもならないだろう」。と思っていました。この辺りが、私とマリックさんの生き方は方向が違う。と思った理由かと思います。

 しかも、この頃のマリックさんは舞台に恵まれていなかったのか、舞台で活躍するマジシャンを目の敵にしていました。喫茶店で話をすると、初めにマジックの種仕掛けの話になり、お終いは日本のマジシャンの悪口になって終わります。独特の岐阜弁で陰気臭く先輩たちを一人一人こき下ろすマリックさんは、私から見たなら病気にしか見えませんでした。人を批判しても自分が一本の仕事が増えるわけでもないのに、なぜこの人は若い物を前に自ら墓穴を掘るようなことをするのだろう。不思議に思いました。

 この時私は、マリックさんは、マジックショップの親父であって、生涯アマチュアの心で生きて行く人で、決してマスコミで大きく売れる人ではないと思っていました。その思いはほぼ確信に近く、アマチュアの行きつく先の人だと思っていました。

 ところが、その私の判断は大きく崩れました。平成になって超魔術師となって突然売れ出したのです。まさに青天の霹靂(へきれき)でした。

続く