手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

親ガチャ 3

親ガチャ 3

 

 私の人生をお話していると限りがありません。私の周囲の人は、私の親が芸人だったから私はすんなりマジシャンになれたと考えている人がいますが、確かに私は早くからマジシャンになりたいと思っていましたし、それを支えてくれたのは親父です。そうした点では幸先の良いスタートを切ったことは事実です。然し、その後は冷静に考えても、親ガチャで運命が決まって、すんなり芸人として生きて来れたのかと言えば、そうではありませんでした。  

 実際、親父から紹介される舞台は、あまり条件のいい仕事はなく、子供の小遣いとしては十分な収入でも、これで生活して行けるかとなると、全く怪しいものでした。

 親父は昔の芸人で、明日の稼ぎのことなど全く考えていない人でした。そんな生き方では自動車一台買うことも、維持して行くことも出来ません。親父の時代の芸人の価値観と私の生き方とは相当にギャップがあったのです。

 つまり、マジシャンとして生きて行くには、親父にくっついて、かかって来る仕事だけを待っていたら、場末の芸人で終わってしまうと気付きました。自分自身でもう少しレベルの高い仕事を開拓しない限り先がないと知ったのです。

 然し、上を目指したいとは思っていても、当時の私は、マジックの技術、知識もことごとくレベルの低いものでした。

 20歳のころ、周囲には30数組の同年齢のプロ、アマチュアマジシャンがいました。私はそのマジシャンの演技をつぶさに見ましたが、彼らはすべての点で私よりレベルが上でした。

 同年代のマジシャンにナポレオンズさんがいました。7歳年上ですが、遅れて芸能入りしてきたマギー司郎さんがいました。ナポレオンズマギー司郎とは仲がよく、頻繁に会っては一緒に喫茶店で話をしました。然し、私ら三組は、恐らくマジック界で一番へたな部類のマジシャンだったと思います。

 3組は、スライハンドもしますが、技が金になると言うほどのものではなかったのです。と言ってほかに目立った取り得も見えません。すなわち同期のマジシャンの中で我々3組は最下位だったのです。上手く生きて行けるかどうかもわかりませんし、むしろいつの間にかこの社会から消え去ってしまうようなマジシャンだったと思います。

 ところが40数年経って、周囲を見渡してみると、かつて巧いと思っていたマジシャンのほとんどが廃業しています。結局残ったのは劣等生の三組でした。

 

 そんな中で私は、昨日、一昨日お話ししたように、キャバレーに出演したり、アメリカに行ってコンベンションとレクチュアーで稼いだりしていました。

 自分なりに稼ぎの場を見つけて、「これなら絶対生きて行ける」。と思った仕事が、3,4年もすると輝きを失い、やがて無価値になり、また次に生きる道を探してうろうろ彷徨(さまよ)わなければならなくなります。生きると言うことはそんなことの連続です。

 努力をして、稼げるようになっても、数年すると、もうそれでは通用しなくなって行きます。親ガチャで運命が決まるなどと言うのは幻想で、親父が私に与えてくれた仕事は、親父が若いころに見ていた価値観であって、私の時代にはもう通用しないものでした。その後になって自分で見つけた仕事も常に不安定なものでした。

 どんな仕事でも、3,4年もすると変化が来ます。変化に対してマイナーチェンジを繰り返さない限り、今していることは古臭くなって行き、やがて限界が来ます。

 大体どんな社会でも20年いいと言う仕事はありません。20年が過ぎると、その社会は古くなって人が離れて行きます。そしてその先には、全く真逆の時代がやって来ます。

 私ごとでいうなら、バブルのさ中にイリュージョンチームを起こして、仕事は多忙になって、チームを株式会社にして、稼いだ金で大きな道具を次々考案して、必死になって働いていたさ中に、バブルが弾け、その後にクロースアップブームが来たのです。

 仕事は激減し、クロースアップで活躍する若手を横目に見ながら、チームを維持することで四苦八苦する毎日でした。

 そこから私がクロースアップに移行することは不可能です。どうやって生きて行ったらいいか。暗中模索の日々でした。やがて、それまでの手妻を大きくまとめて、単なる演技としてでなく、大きく和の文化として維持発展させて行こうと考えるようになりました。幸いそれが多くの支持を得て、東京イリュージョンは、伝統的な手妻を残すチームとなったのです。

 私は子供のころからずっとマジックをしてきましたが、子供の頃にしていたマジックはタキシードを着て、道具物を扱うマジックをしていました。その間に古い先輩から手妻を習いましたが、当時は全く手妻を生かせる場所がありませんでした。

 その後、スライハンドをし、イリュージョンをしたりして、仕事の規模を大きくしましたが、バブルが弾けて、手妻を再度構築しなおす活動を始めたのです。

 言ってみれば原点に回帰したことになりますが、今私がやっている手妻は昭和40年代に私が習った手妻とは全く違います。あの時代の手妻は錆だらけ、カビだらけ、矛盾の塊だったのです。それを私がそのまま演じていたなら、今の若い人は一人も寄っては来ないでしょう。

 今の人が私から習いたいと思っていることは、昔の手妻の原作の面白さプラス、私の考え方、アレンジ、演出に興味があってやって来るのでしょう。古い物を古いまま演じていても若手やお客様は興味を示さないのです。

 親ガチャと言って、初めから受け身で物事を眺めていては何も生み出せません。どんな社会でもどんな立場でも、自分がどう考えたか、どう工夫して生きて来たかと言うことにこそ価値があるのです。

 人によっては「何をどうしていいかわからない」。と言います。私でもどうして行っていいのかわかりません。でも、苦悩して答えを探すのです。必ず日常にサインが出ています。多くの人はそのことに気付かないだけなのだと思います。

 誰にでも平等にサインは出ていて、誰でも答えを掴めば成功するチャンスがあります。「自分には何もない、どうしていいかわからない」。と周囲に不満を言い続けているだけでは目の前のチャンスも逃げて行きます。不満を言う前に、サインの見つけ方を先輩から学べばいいのです。物の分かった人を仲間にすることです。

続く

 

 明日(18日)、12時30分から玉ひでで公演があります。若手の出演は、ザッキーさん、せとなさん、前田、です。

 私は久々、傘手順から蝶までのフル手順を演じようと思います。どうぞ、ご興味がございましたらお越しください。東京イリュージョン、03-5378-2882