手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロで生きる 4

プロで生きる 4

 

 クロースアップマジシャンを見ていると、多くのマジシャンが仲間同士で集まっては、いつも現象の話、技法や、タネの話ばかりしています。そうした話も大切ではありますが、マジシャンが考えなければならないことはそれではないはずです。

 そうしたマジシャンの演技を見ても、多くの場合、作品を羅列しただけの内容がほとんどです。そんな演技を見ると、観客は延々と同じものを繰り返し見せられているように感じます。

 それぞれの現象がどんなに不思議であったとしても、カード当てはカード当てであり、予言は予言です。観客には同じに見えます。どれを見ても自分がないのです。ポエムもなければ語りもないのです。しかも、そうしたマジックを見る限り、マジシャンのみが気持ちよく優越感に浸っていて、観客は長時間見ていても、なに一つ手に入るものがないのです。

 歌ならいい歌詞を聞いたら一緒に歌おうと思います。いい芝居なら思いっきりその世界に入り込んで今まで見たことのない世界を旅することが出来ます。映画も同じです。然しマジックは違います。どんなに見事に引いたカードが当たったとしても、それはマジシャンの成功に帰してしまいます。

 それが分かっているだけに、お客様はマジシャンが寄って来て、「マジックをお見せしましょうか」。と言っても、身構えてしまいます。初めからカードを出して、お約束の如くカードをお客様にひかせようとします。この時点ですでに観客はこの場の勝利者がマジシャンであることを予測しています。「どうせ当たるんだろう」。と思います。自分は上手にあしらわれ、ルールを知らないゲームに引きずり込まれてぼこぼこにされるんだろうと覚悟します。

 こういう演者と観客の関係は、何か間違っていると思いませんか。マジシャンが本来しなければいけないことは、カードが当たることでもなければ、予言が当たることでもなく、コイン数枚が右手から左手に移ることでもないのです。

 仮に巧い演技であったとしても、演じているマジックの不思議は手先の技に過ぎず、マジシャンの背景に異次元の世界はなかなか見えては来ません。それが見えてこなければただマジシャンの器用さを見せつけられているだけと感じてしまうのです。

 お客様の望んでいるものは、マジシャンと一緒に異次元の世界を体験してみたいのです。然し、多くのマジシャンは自分が予定した演目を演じてしまうとさっさと去って行きます。観客初めから終いまで観客の儘にとどめてしまい、後には何も残らないのです。

 

 イリュージョンショウで、ひたすら大道具を駆使して、女性が消えたり、剣を刺したり、やたらと道具が出てくる演技を、欧米のマジック関係者はヒューチャームーバー(ヒューチャー=家具、ムーバー=移動)と言います。つまり家具屋さんが箪笥や応接セットを移動させていることと同じだ、と言うわけです。

 

 イリュージョニストが、苦労して大道具を演じたとしても、ただ演技を羅列しただけではお客様は家具の移動にしか思わないのです。同様にクロースアップでいくらマジックがうまくても、いきなりカード当てを次々に見せられたなら、お客様はマジシャンの優越につき合っただけにしか思わないのです。

 マジシャンがマジックをする、と言う行為は勿論正しいのですが、それだけでは、マジシャンはなにも観客に与えていないのです。観客が求めているのはマジックではないのです。ありもしない世界を語って見せ、しっかり異次元の世界を作り上げて、お客様をその世界に引きずり込んで行けたなら、観客はマジシャンの独自の世界に浸って、満足するのです。

 

 マジックを習得して、人前でマジックを見せる。それはほんの入り口の行為に過ぎません。仮にそこでギャラが支払われたとしても、それでプロになったとは言えないのです。プロとは自分にしか作り出せないような世界を作り上げる人の事です。

 そのことはマジックだけではありません。例えば、ピアノでも、ギターでも、少し覚えて巧く弾けたとしても、ほとんどその程度で生活して行けるものではありません。ましてやプロとして認められるような人は、はっきりと独自の世界を作り上げていなければ人の話題にも上りません。音楽家でも俳優でも、およそ芸能とはそうしたものです。マジックも例外ではありません。

 

 コロナがかなり長引いて、テーブルホッピングでは食べて行けないと嘆いている人がたくさんいます。中には指導のビデオを作ったり、指導に専念したり、或いは種明かしのyoutubeを出す人もいます。何をしようとも、自分の世界を作り上げない限り、マジックで生活して行くことは不可能です。

 指導も結構です、指導ビデオを出すことも結構です。でも、それは進んで自分からすることではなく、人に求められてこそすることでしょう。「実力あるA先生から是非習いたい」。と思う人が自然に集まって来るから指導が成り立つのです。

 指導家の方から、「どうです、一つご指導しますよ」。と言って教えるものではないはずです。まず初めに実績があって、周囲の人がその実力を認めた上で成り立つ仕事のはずです。

 種明かしをyoutubeで出すことも同様です。種明かしは問題ですが、指導をする場合、先ずこの社会でどうにかなってから指導すべきです。でも、自分の演じるマジックで、もし生活して行けたなら、種明かしをしようと思いますか?。結局、自分が見せる力がないから種明かしをするわけでしょう。

 そうなら、タネをあかしをしている場合ではないはずです。そんなことをして小銭稼ぎをしていると言うことは自分の非才を暴露していることと同じでしょう。どんなにタネ明かしが稼げたとしても、それは私のアメリカの指導と似たり寄ったりです。若いうちの一時の稼ぎに過ぎません。そんなことを続けて行けば行き詰まるのは見えています。10年先20年先を考えたらこれほど不安な人生はありません。なによりまだ、その時の私は自分のマジックを完成させていないのですから。

 どんなにつらくてもまず自分の世界を作り上げることです。それが出来た上でなければそもそもマジシャンですらないのですから。

続く