手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芸は人

 一週間ほど前に、秋田のアマチュアマジシャンの小野学さんからメロンが届きました。小野さんは八郎潟で農業を経営されていて、米やフルーツを作っています。

 いつもお米を頂くのですが、今回はメロンを頂きました。一週間置いておき、昨日食べてみたのですが、メロンを切って皿に盛って部屋に持ってきた時に既に強い香りが部屋中に漂いました。「これは、すごい」、と食べる前から期待が弾みました。

 実は少し硬めでしたが、甘みがたっぷりで、しかもジューシーです。昼に食べるデザートにはまことにぜいたくでした。もしご興味がございましたら、ono.fam@ogata.or.jpに、お問い合わせなさってみてください。価値あるひと時を楽しめます。

 

 昨日は神田明神の舞台でした。30名以上のお客様が集まり、実に熱心に見てくださいました。演じていても張り合いがありました。ここの舞台はスペースもかなりありますので、手妻だけでなく、マジックショウが出来たらいいと思います。若い人に毎月10組くらい出てもらって、演技を競ってもらったらいいと思います。出る場があれば若いマジシャンもうまくなります。何とかそれができるように交渉してみようと思います。

 

芸は人

 ある若いマジシャンを見ていて感じたことですが、この人は、マジックはできています。10分間演技を見ていて、普通に不思議が成立しています。然し観客の拍手はわずかです。そして、これ以上観客が演技を見たがっているかと言うと、観客はマジシャンにもう興味を失っているように見えます。何が問題なのでしょうか。

 しばしばアマチュアさんのマジックを見ていると、不思議な現象を演じて、不思議が成立した時点でポーズをとり、いい顔をして、そこでマジックが終わります。そして次のマジックに移行するのですが、その過程でマジシャンの思いであるとか、魅力であるとか、そんなものは語られません。ましてや観客がどう考えているのかとか、観客の気持ちをどうとらえているのかをマジシャンは知りません。アマチュアは自分が覚えたマジックをただひたすらに演じているだけです。アマチュアの演技なのですから当然と言えば当然です。

 然し、観客の側から考えた時に、不思議を演じたマジシャンが、ポーズをとって、得意顔をして終わるというだけの演技では、確実に観客とマジシャンの間に溝を作ってしまいます。

 アマチュアさんがマジックをして、成功して得意顔をする。これは悪いことではありません。実に気持ちのいいものです。そもそもアマチュアさんがマジックを趣味とするのは、そう難しくない技を、舞台で演じると、素人さんが不思議がって喜ぶから、それが面白くて病みつきになるのでしょう。

 然し、それをプロになった時に得意満面で演じていると、仕事として成り立たなくなります。なぜなら、お客様にすれば、マジシャンの優越を見せられるばかりで、お客様が得るものが何一つないからです。つまり、現象を見せただけで、お客様とマジシャンが何一つつながっていないのです。

 

 例えば、音楽について考えてみると、人が音楽を聞くのは、そこに共鳴できるからです。愛への賛歌であるとか、失恋の痛みであるとか、家族に対する愛情であるとか、人の喜怒哀楽を音楽から感じることで聴いている人は共鳴します。

 しかしマジックは残念ながらそう簡単に観客から共鳴は得られません。カードが当たる、コインが次々に出て来る、ということでは観客の共感は得られないのです。マジックの現象は、所詮マジシャンが仕込んだマジシャンの都合の世界であって、いくら見せられても観客は感情をゆすぶられることはありません。ましてや、一芸が終わるたびにマジシャンがポーズを取って、得意がられては、マジシャンの優越を満たしているばかりで、一つも観客の満足は満たされません。

 ではマジックでは観客は共鳴しないのかと言うと、そうではありません。上手いマジシャンは、必ず現象を演じる際に、いい表情をします。マジシャンは作り上げたストーリーに忠実に、喜怒哀楽を表現します。このマジシャンの表情に観客は共鳴するのです。そうであるなら、マジックは、現象の結末をポーズで強調することではなく、観客の共鳴をいかに引き出すかの、表情付けが最も大切なことになります。

 

 手妻で言うなら、絹帯の中から傘が出るときに、傘を出して礼をして終わるのでは、ただ不思議を見せただけで、なにも観客に伝えていまません。出した傘で侍の格好をして見得を切ったり、娘の格好をして見得を切ったりしながら、市井の風俗を表現して、当時の男がどんなことを考えて歩いていたか、娘が何を考えて構えていたか、その楽しさ、悲しみ、憂い、寂しさをごく一瞬に捉えて表現したときに、観客は、傘を出したトリックのことを忘れて、マジシャンが作り上げた世界に浸りだすのです。その世界が、およそ今では、見ることのできない世界で、風情があって面白いと気付いてくれることで、観客との共通点が生まれて行くのです。

 そうした世界を作り上げることで、観客は手妻(あるいはマジック)を面白い、と初めて感じます。つまり、現象を見せてポーズをとるだけでは芸としては成り立っていないのです。その後に何を観客に与えるか、そこに芸能があるのです。

 プロであるなら、観客に現象を見せる、ということだけではなすべきことの半分もできてはいません。どのように観客を共鳴させるか、そもそも、マジシャンがその共鳴する世界を作り上げているのかどうか、そして、その世界に観客を確実に引き込んでいるかどうか。そこが重要なのです。世界もなく、なすすべも分からないというのは、プロではないのです。

続く