手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

未完成とグレート 1

未完成とグレート 1

 

 私が小学生のころ、クラシックレコードのLP版で最も売れていたのは、ベートーベンの5番「運命」と、シューベルトの「未完成」の二曲の交響曲を裏表に入れたレコードで、この組み合わせは、どこのレコード店でも、何書類ものオーケストラ、指揮者で販売されていました。硬い、聞きずらいと言われるクラシック音楽の中でも、この二曲はドル箱の人気曲だったのです。

 それだけ売れた曲ですから、およそクラシックなんか聞かない家でも、ちょっといいステレオを持っている家なら、大概「運命」「未完成」だけはありました。

 つまり、当時は常識として、ステレオを買うと、必然的にこの二曲はかっこ付けに買っていたようです。しいてもう一曲、交響曲を買うとなると、ドボルザークの「新世界」でしょうか。昭和40年代、交響曲と言えば、この三曲が代表的な曲だったのです。

 

 今、だった、と過去形で言いましたが、最近のクラシック界の流れは、運命も未完成も演奏される機会は少なくなっているようです。ベートーベンで言うなら、5番よりも、7番の方が人気が高いようです。あのジャンボ宝くじのコマーシャルでサンバガールと一緒に、宝くじの券をひらひらさせて踊っている背後で流れている曲が7番です。確かに7番は陽気で、面白い曲ですが、コマーシャルにまで使われて、なおかつ演奏頻度も、運命をしのいでトップに立つとは思いませんでした。

 それでもベートーベンの音楽は演奏会では常に重要な位置を占めますから、5番の演奏頻度はそれなりにあります。およそ聞かなくなったのは未完成です。

 そもそも、シューベルトの8番の交響曲「未完成」は題名ではありません。何の理由かはわかりませんが、途中までしか作らなかったため未完成(英語圏ではアンフィニッシュト)、と但し書きしているだけなのです。

 通常、交響曲は4つの楽章から出来ています。それが、この曲はなぜか二つの楽章だけしか書かれておらず、曲を聴いても、これで終わりとは思えない終結をしています。実際、第3楽章は途中まで書かれていて、第4楽章もわずかな草稿が残されています。

 その後になって、草稿を元に全曲を作り上げた人がいます。そしてお披露目をしてみると不評でした。やはりシューベルトが作らないとだめなようです。

 シューベルトがなぜ途中で止めてしまったのかは謎です。元より、誰かに依頼されて書いた曲ではないようですので、他に収入になる仕事を頼まれて、そっちの作曲をしているうちに、交響曲のことは忘れてしまったのでしょうか。

 未完成はメロディーが奇麗なためにとても人気があります。然し、実際聞いて見ると、内容が深く、決して万人受けする曲ではありません。軽い気持ちで聞く音楽ではないことはすぐにわかります。シューベルトとしては珍しく、内容をしっかり詰め込んで本格的な交響曲の作曲をしようと試みたのです。それだけにたった二つの楽章ですが、かなりボリュームのある内容になっています。

 二つの楽章とも12分くらいあって、両方聞いて25分と言うのは、クラシックをあまり知らない人にとってはちょうどいい時間です。仮にこの曲が四つの楽章が完成していたなら、50分もの曲になってしまい、もうそれはマーラーや、ブルックナーに匹敵する大曲になってしまいます。世間一般からは敬遠されるでしょう。

 

 そもそも、当時のLP レコードと言うのは、片面30分~35分程度しか曲を入れることが出来ませんでした。運命35分、未完成25分はちょうどいい長さだったわけです。長い間、マーラーや、ブルックナーがポピュラーではなかったのは、曲によっては1時間を超えるものがあって、LP版に収まらなかったからです。

 当時のレコードは高価で、一枚2000円から2500円しました。アルバイトの学生の日当が1200~1500円の時代にです。二枚セットで4000円を支払って、一曲のブルックナーを買うと言うのは、音楽ファンにとっては負担だったのです。

 

 話を戻して、シューベルトはわずか31年の生涯の中で1000曲に及ぶ歌曲を作曲したのですが、晩年に(と言っても20代後半ですが)、短い、軽い曲ばかりを書くことに少し疑問を感じ、もう少し内容の深い、厚みのある曲が作りたくなったようです。

 どうやらベートーベンの5,6、7番の交響曲を聞いて刺激を受けたようです。ベートーベンのような偉大な作曲家が同じウィーンの町に住んでいれば影響を受けないわけはありません。未完成は相当に苦労して作り上げたようです。

 私は学生のころから、どうしてこの曲がこんなにポピュラーに扱われているのだろうと訝(いぶか)しく思っていました。二つの楽章とも短調で、シューベルトとしては重たく暗い曲調になっています。表現している内容は、満たされない自己の告白であり、古典派の音楽でありながら、語られていることは私小説のようで、決して万人受けする内容ではないのです。

 しかも、この曲は途中で終わっていますので、最終的にシューベルトがこの先話をどうまとめようとしていたのかが分かりません。ある意味ブラームスの曲に似ていて、理解しにくい曲なのです。それでいてメロディーが奇麗なため、昔から頻繁に演奏会に上がっています。

 人気曲ではあっても指揮者とすれば、この曲を演奏することは、今も複雑な心境だろうと思います。例えば、有名な2時間の映画を1時間で切って、途中で幕が下りたなら、どんなに面白い映画でも、見ている人はみんな消化不良に陥るでしょう。実際未完成はそれと同じなのです。結末の見えないまま終わってしまうのです。この不完全な音楽が180年演奏され続けてきたわけです。不思議な魅力の曲だと言えます。

 演奏は、フルトヴェングラーではだめです。曲想が大きくて、ドラマを作り過ぎます。メンゲルベルクはメロディーは抜群に奇麗ですが、細かな細工が少し邪魔をします。ベストはブルーノワルター指揮のウィーンフィルがいいと思います。但し古い録音ですから、今聞けるかどうか。

 ワルターこそはシューベルトに寄り添って、彼の才能を愛し、素直に奇麗なメロディーを指揮しています。時代は1820年代、日本で言う文政時代のウィーンの、ほの暗い夕暮れ時、有り余る才能を持ちながらも、自分の才能に疑問を抱いているシューベルトが、寂しく、街角に立って人々を眺めている姿が目に浮かんできます。そこにワルターは愛情をもって接して、彼を支援しています。私は中学生の頃はひたすら感動して聴きましたが、今、色々な人の演奏を聴いても、今一つ感動できず、結局ワルターを聴き直してしまいます。

 と言うわけで、夜な夜な、未完成を聞いていますが、同時に、シューベルトの9番「グレート」も聴いています。その話はまた明日お話しします。

続く