手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の奇術師

昭和の奇術師

 

 私は子供のころから親父について行って演芸場や、さまざまなイベント会場に行き、舞台の袖や、客席で様々な芸人やマジシャンを見ました。小学校に入りたての頃は、漫才や落語、講談はよくわかりませんでしたが、子供が見ても面白かったのは、曲芸や、アクロバット、独楽廻し、百面相、腹話術、マジックでした。

 当時はまさか自分がマジシャンになるとは思っていませんでしたので、演技の内容はあまり細かくは覚えていませんが、昭和35年くらいのマジシャンは、片手に衣装バック、片手に道具の入ったバックを持って楽屋に入って来ます。今考えると、二つのバックはどれも小さく、道具の入ったボストンバックにしても、今日のスーツケースの半分くらいのサイズだったと思います。

 道具の中身は、譜面台の三脚を改良したテーブルが一台、あるいは二台入っていて、テーブルはビロードがかかっていて、大概そこに太い文字で名前が書かれていました。バックの中身の大半分がテーブルで、後は、ロープ、新聞紙、ハンカチ、グラス、ローラー印刷機、取りネタはタンバリンか、メリケンハット、技物のカードや四つ玉などをする人は殆どいなくて、カードでも簡単な当て物だったり、とにかくびっしり小道具が詰まっていました。

 どのマジシャンも30分くらいの演技は普通で、演技の途中で次の演者が来ないから少し伸ばしてくれ、などと主催者に言われると、平気で1時間演じたりもしました。その時は、道具を増やすわけではなく、一本のロープを使ってロープの様々な演技をひたすら演じ、紐で腕を縛って脱出して見せたり。その紐を鋏で切って繋ぐものを数種類演じたり、しまいには簡単なロープ切りの種明かしをしたり、とにかくロープ一本で楽々30分は演じていました。

 その当時の演技はどの師匠もスローで、しかもよくお客様を舞台に上げて手伝ってもらったりして、随分と長く時間をかけて演じていました。

 昭和30年代は、カセットテープや、CDなどはありませんでした。大概の演芸会にはアコーディオンの演奏者を頼んで演奏して貰っていました。時には三味線太鼓の時もありました。少し予算のあるところではサックス、ギター、ベース、トランペットなどの小さな編成のバンドが入っている時もありました。

 演奏者がいないときは、各自が用意のレコードを持ち込んで、舞台袖にある電蓄(電気蓄音機の略)と言う、小さな再生装置でレコードを流して、それをマイクで拡声して使用していました。そのためにマジシャンは常にドーナツ版(直径17センチで45回転のレコード)と言うレコードを数枚持っていて、演技に合わせて裏方さんにかけてもらっていました。

 ところが、この担当者が専門家ならばいいのですが、とりあえず舞台周辺で暇にしている親父さんを頼んだりするとこれが大変で、ドーナッツ版ですから、45回転なのですが、間違えて78回転で掛けてしまったり、78回転ではとんでもなく早回しになって、チャップリンの活動写真を見ているようになって、客席は大笑いでした。裏面と表面を間違えてかけたり、電蓄の針の扱いに慣れていない親父さんが、レコード盤の上からいきなり針を落として、ぶちッと物凄い音がしたり、音楽が途中から入ってしまって曲と演技が合わない等々、とにかくめちゃくちゃでした。

 この時代のマジシャンは一つの演技時間が長く、メリケンハットでも10分から15分は演じていましたし、リングも10分、ロープも10分は演じていました。シルクマジックも簡単な手順で演じていましたが、シルクが使い過ぎて、よれよれのシルクを拳の中に押し込んで、色変わりや、サムチップをしたり・・・。余り鮮やかな芸には見えませんでした。それでもマジックを見慣れていない私には不思議な世界でした。

 このころ見たマジシャンが誰であったか、その後にいろいろ手繰って行くと、松旭斎一門の良子、天春、天花、天静、すみえといった各師匠。この辺りは一流レベルのマジシャンでした。アダチ竜講師などは大看板でした。勿論おかしな舞台はありませんでした。そうしたマジシャン以外の、あまり知らないマジシャンが奇妙な舞台をしていました。今考えても全く思い出せないような人達でした。

 東京で伝統的な手妻を残していた一徳斎美蝶師は、一度だけ見ましたが、残念ながら私が10歳くらいでしたので、何を演じたのかは記憶にありません。積み木のバランス芸や、皿廻しと言った曲芸を演じたことは記憶しています。口上で「積み木と積み木の間には毛ほども隙間はございません」。と言ったのを記憶しています。毛ほども、という言い回しが子供にとっては面白かったので覚えています。

 私と手妻のつながりはそれだけでした。その後12歳になって松旭斎清子の弟子に入り、いろいろ習いましたが、この時にはすでにギャラを貰って一人で舞台に出ていました。そのため、あちこちの師匠と縁が出来て習いに出かけています。清子はそれに対して苦情は言いませんでした。

 清子は一人で演じる時もあり、弟子の清花を使うときもありました。私も何度もついて行って手伝いをしました。清子は常に着物を着ていて、舞台は和風でした。然し内容は手妻と言うわけではなく、パラソルチェンジ、トランプ当て、新聞と水、タンバリン。リング。毛叩きの色変わり、パン時計の変形で、三重ボックスからお客様の時計が出て来る箱、袋抜け。等、殆ど西洋マジックをしていました。私もそうしたマジックを習い、その中に連理の曲などの手妻が幾つかありました。その頃はどれが西洋マジックで、どれが手妻かの違いも分からずただ新しいことへの興味で習っていたのです。恐らく清子自身も、自分が西洋マジシャンなのか、手妻師なのか、全く認識していなかったでしょう。松旭斎の一門はそうした人が多く、少なくとも昭和の40年代半ばまでははっきり西洋マジックと手妻を区別して、演じ分けて見せる人は少なかったのです。

 当時を考えてみると、何でもありの雑多なマジックでしたが、こうした師匠連中が修行した時期と言うのは昭和初年で、当然ながら徒弟として修業をした人ばかりでした。当時はマジック教室などなく、デパートの販売などもほとんどなかった時代です。

 それだけに、マジックの種仕掛けは一般に知られておらず、演者もタネを大切にしました。演目は少なくても、どれも巧かったと思います。中には今見たらおかしなハンドリングもありましたが、それは60年前のマジックと今のマジックを比べることに無理があって、個々のマジシャンの巧拙ではなく、時代が至らなかったのです。少なくとも今のマジシャンよりは一つ一つの演技が丁寧で、細かな所作が手慣れていました。マジックからさりげない職人芸を見ることは、今ではもうあり得ないことです。

 続く

ギャンブルはやめられない

ギャンブルはやめられない

 

 昨日はギャンブルがいかに危険かと言う話をしました。然し、いくらギャンブルは危険だ、と言う話をしても、好きな人はギャンブルを繰り返しますし、一度嵌ってしまえばその面白さを脳や体が記憶してしまい、その感動を繰り返し体が求めて、とことんやってしまいます。

 俗に酒、女ばくちを三道楽と言いますが、どれひとつとっても特別なことではありません。誰しも体験することではありますが、これらに深く嵌ると一生抜けだすことが出来ません。いや、中には途中から足を洗って、正業に専念する人もいます。

 然し、だからと言って完全に道楽から縁が離れたわけではありません。正業が儲かりだして、ゆとりが出てくればまた道楽が始まります。

 これはどんなに頭のいい人でも、仕事のできる人でも同じです。傍から見たならそんなことをしたら金を失うだけだ、時間の無駄だと言っても、当人はどんどんギャンブルに投資して行きます。実は彼らは金が欲しいのではないのです。成功体験をしたいのです。

 ギャンブルならば数分のうちに1000万円稼ぐことも不可能ではありません。それに対して通常の仕事ではなかなか大金を稼ぐことは難しいのです。日々、余りに多くの用事があって、利益に直接結びつかない地味な作業の繰り返しが続きます。他社との競争に絶えず注意をして、対人関係も壊さないように気を使い、余り働く気のない社員をその気にさせて、常に新しい考えを学び、ありとあらゆることをしてようやく手にする利益はわずかなものです。

 どこの企業でも、一億円の投資をして、年間利益になるのはせいぜい一割、1000万円くらいだそうです。それも儲かればの話であって、ライバル会社が同じような品物を作ればたちまち売れなくなりますし。売れたとしても海外に輸出して、円高になれば、一割程度の利益はすぐに飛んでしまいます。

 どんなに売れていた商品でも、ある日突然流行遅れになって、売れなくなったりもします。どうしてそんなことになるのか見当もつきません。そんなときに、ふとギャンブルを知って、たまたまビギナーズラックに遭遇して、いとも簡単に大きな金を稼ぐと、一辺に世界を見る目が変わって行きます。

 余りに簡単に成功が手に入って、こんなことで稼げるなら、今まで苦労してきたことが何だったのかと思います。無論、ギャンブルの成功が長続きしないことは分かっています。分かってはいますが、成功した瞬間が忘れられなくなります。

 

 競輪、競馬と言った公営ギャンブルは勿論ですが、仲間同士の賭けマージャンや、ポーカーなどは、相手が見えるだけに、勝利したときの達成感はまさに剣を持って相手を倒した気持ちになります。その勝利感は半端ではありません。相手が金のある人であったり、ポジションの高い人であったりすればなおさらです。力で相手を倒しと事と同じような征服欲を満たします。

 これが人の気持ちを狂わせます。僅かな金で大金を稼いで勝負に勝った時の高揚感はなかなか普段の仕事では味わえません。勝てば当然収入になりますが、むしろ収入よりも勝利の過程を体験することでギャンブルの旨味を覚えてしまいます。するともうやめられなくなります。

 私自身は20代のころ楽屋のポーカーや、パチンコをよくやっていました。今から50年近く前のパチンコは、今のメカニックな機械とは違って、単純素朴なもので、釘の見方が分かればそこそこ勝てるギャンブルでした。もっとも勝てても1000発か1500発で打ち止めで、全く小銭で遊ぶギャンブルでした。

 それでもパチンコにのめり込むと言うほどにはやりませんでした。やらなかった理由は二つあります。一つは、マジックが面白くて、習いに行ったり、マジックを演じるために舞台に立つ時間がかなりあったおかげで、ギャンブルにのめり込むほどの時間がなかったのです。早くから自分自身の目的があったことが幸いしたのです。

 そしてもう一つの理由は、親父の姿を見ているからです。親父は競輪、競馬、マージャン、ポーカー、パチンコ、ありとあらゆるギャンブルが好きで、しかもどれもそこそこ強かったのです。強かったと言う理由は、勝つ法則を見つけ出していて、その法則に添ってギャンブルをすればかなりの確率で勝てたのです。

 親父は、長年競輪、競馬は相当に研究をしていて、馬主とも仲良くなって、厩舎に泊まり込んで騎手を知合い、酒を呑みに行くほどにいい関係を持っていたのですが、実際の勝負になると、必ずしも儲かってはいなかったようです。

 親父が稼ぎになったには、パチンコとマージャンでした。パチンコは店の癖を見抜いて、出る台を見つけるのがうまく、かなりの確率で稼いでいました。麻雀は、元々親父は記憶力が良く、麻雀パイがどこに散らばっているかを記憶する能力に長けていたのです。4人が適当にパイを混ぜていても特定のパイがどこにあるかを記憶していて、必ず相手の手を読んでいて、危ないパイは降らなかったのです。こうした真似は私には出来ませんでした。

 ポーカーも同様で、札をシャッフルするときに、シャッフルの様子をようく見ていました。素人が混ぜるわけですから、カードが細かく混ざることはありません。エースの3カードなら、3枚が固まっている場合が多いのです。次の回でそれを客に撒くとなると、必ずエースは三人にばらけて配られます。そうなると、エースはワンペアもスリーカードもまず出来ません。親父はそれを記憶していて、相手のブラフを読むのです。日頃はいい加減な親父でしたが、事ギャンブルだけはしっかり論理的な行動をしていたのです。しかしそれでもトータルすれば大して勝ってはいなかったと思います。

 金がなくなると、家にある酒瓶を買い物かごに入れて酒屋に行き、一本10円で引き取ってもらったり。読み古した時代劇小説を古本屋に持って行って、金を作っていました。子供だった私は酒瓶や古本を持たされついて行きました。親父はそうして僅かばかりの金を作ってはパチンコをしていました。

 その間、私は夕方まで祖父母の家で遊んでいて、暗くなると遊び疲れた親父が迎えに来ました。勝った時にはチョコレートをくれました。負けた時には二人でとぼとぼと帰りました。親父の生き方は、子供心にも格好が悪いと思いました、あの姿を思い出すと、ギャンブルは稼げないと知りました。

 ギャンブルの勝利は当人からすれば輝かしい栄光ですが、それは現実の世界ではないのです。脇で見ている子供からすれば、勝ったと言っても手に入るものはチョコレート一枚であり、普段は金もなく、さえない格好をした親父の姿しか記憶にないのです。

続く

ギャンブルは危険

ギャンブルは危険

 

 当たり前の話ですが、水原一平さんによる、大谷選手の銀行預金の使い込みは、改めてギャンブルに深入りすることの恐ろしさを知らされた事件でした。

 恐らく一平さんも、初めは自分自身が何百億円も負けるとは思っていなかったはずです。然し負けが込んでくると、全く周囲のことが見えなくなって来るのです。勤め帰りにパチンコをして、5千円負けた、1万円負けたと言うなら、その負けは給料日になれば穴埋めが効きます。自分自身で制御できる負けです。その程度の金額でギャンブルをしている分には、ギャンブルは遊びなのです。

 ところが、ギャンブルの赤字が月給の金額を超えてしまうと、内心穏やかにはいられなくなります。多くのサラリーマンは、給料以外に借金を返す方法がないのです。この時、人は二つの判断をします。

 一つは、ギャンブルをやめることです。とにかく借金返済に専念して、1年でも2年でもギャンブルをやめます。これは常識的な判断です。こういうふうに考えているうちはまだ社会で生きて行ける人です。

 ところが、中には、ギャンブルで作った借金をギャンブルで補おうとする人がいます。これがギャンブルの危険な道に入る序章になります。ギャンブルに嵌って身動きできなくなる人は、ギャンブル以外のことが考えられなくなる人が多いのです。

 色々な趣味を持っていて、人との交流のできる人は、それだけで、ギャンブルをする時間が限られていますから、そう大きな負けはないのです。また、趣味を生かして、例えばメルカリなどでレトロなおもちゃを売り買いなどして、少しの収入を得ているとか、漫画を描いてそのイラストがわずかな収入になっているとか、学生時代からやっていたマジックを生かして、近所のレストランでマジックを見せて収入を上げているとか、何らかの形で趣味で、収入を得ていたりすると、それなりに生きがいが見出せます。新たな仲間の輪も生まれます。それが人生を充実させることにつながります。

 趣味で得た利益がギャンブルの借金の返済に充てられるとは考えられませんが、何か趣味を持っていて、その趣味で地域のリーダーになったり、人の役に立っている。なんていう人は、何か問題が起こっても、周囲に協力者が現れ、対処ができるようになります。それもこれも常日頃心にゆとりを持っていて、少しずつでも趣味に時間を使ってきたから出来ることで、朝から晩までギャンブルに明け暮れていては、誰も力を貸してくれる人も出て来ないのです。

 

 一平さんは、たまたま隣に大谷選手がいたことが、人生を狂わせてしまったわけです。例えて言うなら宝くじの一等を当てたようなもので、大谷選手がいたことで、当面の借金を逃れることが出来たのです。でもこのことが同時に悪魔との契約につながることになったのでしょう。

 ギャンブルをする人は、最後の最後まで自分が勝利すると言う気持ちを捨ててはいないのです。手持ちの金がなくなる瞬間まで、奇跡が起きると信じています。100億円負けても、次に投資する百万円でそれまでの負けを巻き返す。そう信じているのです。

そして、他に金を生み出す方法があれば、気持ちを切り替えて別の解決策を探したはずですが、趣味や目的のない人は、結局ギャンブルでしか金を作ることが出来ませんから、勝利を夢見て金を使い続ける結果になります。そうなると、全く勝利する根拠もないのにただひたすら自分は勝つと信じて、借りられる金は手当たり次第に借りて、家にある金目のものは全て金に変えて、最後の最後までギャンブルに投資します。結局は破産するまでギャンブルは続きます。

 酒のみが酒におぼれ、薬中毒の患者が薬におぼれて行くことと同じで、ギャンブルはギャンブルにおぼれて行きます。傍から見ればそうなることは目に見えているのに、当人だけが気付きません。ギャンブルに嵌った人は、通常の人が見ることのない、幻想の世界に入り込んでしまって、そこを現実の空間と勘違いし続けます。

 服が汚れていても髪がぼさぼさでもそんなことには頓着しません。幻想の世界では自分の姿が冷静に見られないのです。周囲の人は「なぜああなるまでギャンブルに金を投資し続けるのだろう」。と思いますが、当人は気付きません。

 親身になってくれる家族や、仲間がいたなら、何とか立ち直る可能性はあります。でも、ギャンブルにしか興味のない人は、自ら家族や仲間を遠ざけてしまっていますので、仲間の信頼を失っています。手を差し伸べてくれる友人もなく、一人泥沼に嵌って行くのです。

 一連の一平さんの行動を見ていると典型的なギャンブル依存症の道です。恐らく、その途中には何度も自分を立て直せる可能性はあったのでしょうが、チャンスを自らが潰してしまったのでしょう。残念ですが今となってはどうにもなりません。

 それにしても、世の中はなぜ、出世街道をまっしぐらに生きて行く、太陽のような大谷選手と、裏街道で悶々と、当てもない勝利を信じて、借金して悩む一平さんのような人を並べて生活させるのでしょう。神様と言うのは何と残酷なものなのでしょう。

 一平さんの人生の成功は、大谷選手を知り、信頼を掴んだことであり、同時に一平さんの転落はその大谷選手の信頼を裏切ったことです。でも、もし大谷選手と知り合わなければ、一平さんは数十億円などと言う大借金を背負うことはなかったでしょう。

 彼の信用で借りられる借金はわずかなものだったはずです。逆説的に言うなら、大谷選手との付き合いがなければ、なんとか自分の働きで返せた借金だったのかも知れません。

 なまじ大谷選手を知ったばかりに、桁外れた大借金をしてしまい、もう戻るに戻れないところに来てしまいました。飛んでもない人生を経験をして、天国と地獄を体験したわけです。もし私が一平さんだったらこの先どうするかと考えたなら、私なら、獄中でこの数年間の体験談を文章にして本を出すでしょう。

 こんな体験をした人は一平さんよりほかにはいないのですから、人生を落後した人間の目で、大谷選手を語る手記を出すでしょう。世の中は勝利する人よりも、負けた人の方がはるかに多いわけですから、大多数の人の共感を呼び、体験談はきっと争うように読まれるでしょう。上手くベストセラーになれば、借金も返せるでしょう。迷惑をかけた大谷選手に報いることもできます。

 僅かでも収入が残れば、元の奥さんと寄りを戻すことも出来るかも知れませんし、小さな店を借りて、商売をして暮らして行くことも出来るかも知れません。そうして生活が安定したら、又ちょっとギャンブルも出来るかも知れません。いや、いや、それはいけません。少しも凝りていませんね。

続く

 

稽古と修理

稽古と修理

 

 今日(17日)は、朝から鼓の稽古をして、その後はカードやシンブルの稽古をする予定です。午後にはいくつか道具の修理をしようかと考えています。場合によっては材料が足らなることもあります。その時には新宿まで買い物に出るかも知れません。

 来月から始まる秋葉原のレクチャーでは、指導の前に毎回スライハンドの演技をいくつかお見せしようと考えています。今では私がやらなくなったスライハンドマジックをこの機会に演じようと思います。

 そのためには、手順もテクニックもかなり忘れてしまっていますので、毎日少しずつ練習して記憶を戻しています。スライハンドではありませんが、数日前「五色の砂」を引っ張り出して稽古をして見ました。これは大量に水を使うために面倒くさくて、めったにやらなかったものです。

 砂は、今ショップで売られているものとは違います。江戸の昔から使われてい鬢付油(びんづけあぶら=ポマード)と蝋を混ぜて固めたものを砂にコーティングしたものです。使い勝手は江戸時代の物の方が容器の底に砂が残る量が少ないため、より不思議です。

 砂と五大陸に流れる川をこじつけて、黄色い砂は黄河の砂。青い砂はドナウ川の砂。などと言って口上で一つ一つの砂の言われ因縁を説明すると、お客様が面白がって話に乗っかって来ます。口上は私が27歳の時に考えました。やる度に受けのよい演目です。 但し、いきなりやってくれと言われてもセリフが出て来ませんので、時々出して稽古しておかなければなりません。セリフの読み直しならそう大変なことではありません。

 シンブルの素材そのものを作り直す作業もしています。これは少し大変です。どうもシンブルは見た目に安っぽいものが多いので、演じる人の年齢によってはシンブルを持つことそのものが恥ずかしいと感じられる人もあるかと思います。そこで、私くらいの年齢のマジシャンが使用に耐えうる高級なシンブルを試作しています。

 巧く出来れば、私のシンブル手順がお客様に強く印象付けられるようになって、シンブルそのものが新鮮に見えて、興味を持つマジシャンが出てくる可能性があります。改良と言うとマジシャンはすぐにシェルを作ったり仕掛けを変えようとしますが、そもそもシンブルそのものがチャチです。演出上、接着剤のキャップを指にはめるなどの理由付けがあるなら、今までのシンブルでもいいのですが、理由もなく指にはめて出てくるのはセンスが疑われます。

 色も柄もデザインも問題です。お稽古道具ならそれでもいいのですが、もう少しグレードを考えなければ品格あるマジックにはなりません。今日はそのシンブルを一気に完成まで持って行こうと考えています。

 ゾンビボールも今少し手直しをしています。これも何とかしなければいけません。かつて、銀メッキの完全に球体のゾンビボールを製作しました。かれこれ20年前です。60個制作して、20年かけて、56個売れました。売れたと言うのは少し語弊があります。私の場合は私のところに習いに来た人のみ頒布しているものです。

 つまりあと4個しか残っていません。又作れば良さそうなものですが、仮に30個作ったとして、10年かけて頒布したとして、完売するには私は80歳になってしまいます。少数の愛好家のための道具製作は効率が悪く、もう再販は無理です。

 そのゾンビボールも、今度の秋葉原で三回催すレクチュアーで出して演じてみようと思います。私がゾンビボールを演じることはもう30年以上なかったのですが、かつてはよくやっていた時期がありました。その時を思い出して、その時の技術に近づくのは少し時間がかかるでしょうが、今のうちにやっておこうと考えています。

 このゾンビは凝りに凝ったもので、ギミックは個人個人の腕の長さを聞いて、注文を受けて調整しています。クロスも表は銀河を思わせるような奇麗な生地で、裏は黒です。龍の柄もあります。共に皺にならない素材です。ケースも豪華なトロフィーを入れておくような黒いケースで、中は赤いビロードが敷いてあります。何から何まで贅沢に作ってあります。

 なぜそんな凝った道具を作ったのかと言えば、それは、マジシャンの使用している道具が余りに粗末なために、楽屋の化粧前に道具が並んでいてもプロの道具に見えなかったからです。それなら、一ついいものを作ってやろうと奮起して作ったのです。

 他のジャンルの一流と言える人達が所有している道具は、サックスでもギターでもヴァイオリンでも、どれも数百万円から、一千万、一億円を超えるものまであります。楽屋に置いてあるのを見ただけでもただものの道具でないことは素人でもわかります。

 ところが、マジシャンの道具はアマチュアもプロも共通して数万円の普及品です。アマチュアはそれでもいいですが、プロならプロ仕様の道具を持たなければいけません。そう思って凝った道具を作りました。

 長いこと在庫になってアトリエの押し入れのスペースを占拠していました。それがまもなくなくなると言うのはめでたいことです。かつては、12本リングも、手妻の9本リングも作りましたし、星形のピラミッドも、小型のビヤダルのタンバリンなども作りました。多くの私の生徒さんがみんなグレードの高い道具を喜んで求めてくれました。お陰でどれも完売です。又作ってほしいと言う方はいますが、もう出来ません。

 

 実はどんどん職人が廃業しています。久しぶりに話でもしようと出かけてみると、もう仕事をやめてしまっています。確かに私のマジック道具の依頼など待っていたら、5年か10年に一度しか注文が来ないわけですから、生活して行けるわけがないのです。

 もっともっと職人が稼げるようにしてあげたい、そう思いつつも、日本で、ゾンビボールやピラミッドを欲しいと言う人が、300人も500人もいるわけはないのです。やはり趣味人の嗜好品(食べ物ではありませんが)の域を出ないのです。

 そんな少ない仕事でも、いい仕事をしてくれました。いい道具と言うものは、用事もないのに毎日取り出して眺めているだけでも嬉しくなってしまいます。そんな道具を作ってくれた職人には今更ながら感謝です。

 さてこれから道具を取り出して、小さな直しをして見ます。これはこれで楽しいひと時です。

続く

 

 

 

これじゃぁいけない

これじゃぁいけない

 

 マジックでも、お笑いでも音楽でも、別段ライセンスと言うものはありません。初めは好きでやり出して、そのうち出演依頼が来るようになり、演技を見せることで生活が成り立ってゆくうちに、ある日自身が、「今日からプロ活動をする」。と宣言すれば、その日からプロです。

 但し、いくら宣言しても、その社会で人から認められて、たくさんの支持者が集まって来て、仕事の依頼が来て、初めてプロとして成り立ちます。

 生きると言うことは日々のことですから、毎月毎月公演の依頼が何本も来なければいけません。でも、それほどマジックを毎日でも見たいと言うお客様が、世の中にたくさんいるものではないのです。

  然し、世の中には有り難いことにマジシャンを支援をしてくれるお客様がいます。公演をすればいつも来てくれるお客様がいるのです。

 それも一人でなく、必ず友達を誘って、何人かで見に来てくれます。有難いと思います。そうした人たちに支えられて公演は成り立っています。勿論、同じお客様ばかりを頼ってマジックをしていてもお客様は増えません。常に新たなお客様を見つけ出して、少しづつでも興味の人を増やして行かなければ仕事にはならないのです。

 結局、芸能で生きると言うのは、根のない浮草のような、頼りない人生のように見えます。でも、長く続けていると、矢張り根がなければ続けて行けないことに気付きます。目には見えなくても、どこかでお客様とつながっていなければお客様は集まっては来ないし、芸は成り立たないのです。

 「何がプロか」。と問われても、難しいのですが、長くこの道で生きてきた人には、必ず人に魅力があります。いや人ではなく、作品に魅力があるのかも知れません。

 どこかに人の求める琴線を見つけ出して、演者とお客様が細い糸で結び付いています。それが何であるか、そこを掴むまでがとても苦労するのです。

 

 若いころはとにかく新しいことを覚えるのに必死ですから、闇雲にマジックを覚えて、練習して、ステージにかけます。がむしゃらに舞台をしているうちに、何とか毎月ショウの依頼が来るようになって、生活が出来るようになります。

 ところが、やっているうちに、舞台環境の悪さ、収入の低さ、付き合っている仕事関係者のレベルの低さなどに気付いて、一人悩むようになります。「このまま今の活動を続けていても、今以上のマジシャンにはなれない。何とかしなければいけない」。と、現状を変えたいと思うようになります。

 舞台活動を続けていれば誰でもそうした時期が来るものです。ところが、今自分のしていることを、ほんの一回り、高級化しようとしたり、規模を大きくしようとしたり、人が到達し得ないような世界に入り込んでみようと思うことは、実はとんでもなく大変な生き方をしなければならなくなるのです。

 それは、自分自身の生き方そのものを変えなければならないことですし、それに見合った仲間や仕事先を見つけなければなりません。何から何まで今までのままではどうにもならないのです。全く違う人間になると言うことは簡単なことではないのです。

 「今の自分を変えたい。思いっきりパァーッと飛んで見たい」。誰しもそう思うのですが、実際そうなるためにはとんでもない変身をしなければならないのです。

 

 昆虫の話をしましょう。今まで葉っぱの上で這いずり回りながら青葉を食べて生きてきた青虫が、ある日、仲間が蝶に変身するのを目の当たりにします。美しい羽が生えて花から花へと飛び始めるのです。「どうしてあんなことができるのだろう」。

 青虫は、日々青葉を食べながら、「このままじゃいけない、葉っぱばかり食べていても今以上の虫にはなれない。せっかくこの世に生を受けたなら、華麗に花から花へと飛んで見たい。でも自分に羽はない。どうしたら変身できるのか。ただ待っていても何も変わらない。今、自分は何をしなければいけないのか」。と焦燥感にかられつつ、自問自答する日々を送ります。

 青虫は、天を眺めて、仲間の成功する姿を羨みつつ、ひ弱で青白く、青葉に寄生して生きている我が身とを見比べて悩んでいるのです。

 芸能も同じです。ただ、好きで習い覚えたことを、仕事にして生きて行こうと思っても、それだけではファンも付きませんし、個性的な考え方も生まれては来ないのです。大変身を遂げて大きく羽ばたきたいと思いつつも、いつまで経っても羽は生えず、青虫は青虫のままです。

 時期が来れば自然に蝶になれるのかと思っていると、一向に我が身に変化は起きません。周りの仲間はどんどん飛び立って行くのに、夏も過ぎ、秋となって風が冷たくなってきても、自分に変化は起きません。やがてびっしり茂っていた葉っぱも茶色に変わり、食べるものも無くなって行きます。

 「このまま青虫のままで終わるのだろうか」。と、焦燥感にかられます。ところが、よく考えてみれば、少なくとも、今まで生を受けて、青葉が途切れることはなかったのです。食べきれないほどの葉っぱに囲まれて今日まで生きて来れたのです。なぜ、自分にここまでの葉っぱを与え続けて、生かしてくれたのだろう。と、

 そこで初めて自分を育ててくれた樹木の存在に気付きます。天を眺めて仲間を羨んでいるばかりではなく、樹木の心の内を尋ねてみようと気付きます。すると樹木は青虫に心の告白をします。それは樹木の宿命として、生まれた土地から動くことができないのです。

 向うに見える山のふもとに綺麗な花が咲いていても、その花に思いを伝えることすらできないのです。たった一度でいいから自分の思いを向うの山の花に伝えたい、と樹木は願っています。樹木がせっせと青虫に青葉を与えていたのは、樹木のメッセージを向うの山に伝えて欲しいからなのです。

 青虫は初めてこれまで世話になった樹木の本心を知ります。それを知った青虫は早速繭(まゆ)を作り、蛹(さなぎ)となります。冬を越し、長い時間が過ぎ、春になって蛹から抜け出て見ると、樹木は一面花盛りとなっています。大きく太っていた青虫は、ほっそりと痩せて身が軽くなり、大きな羽が生えています。蝶は育ててもらった樹木のメッセージを携えて、向こうの山裾に咲き誇る花に飛んで行くのです。

 青虫はこれまでは青葉に寄生するだけの害虫だったのです。それが羽を持つことで世間の役に立つようになったのです。羽を持ったから変身できたのではありません。人の役に立とうとしたときに、体から羽が生え始めたのです。マジシャンのマジックは人の役に立っていますか?。

続く

当たりかはずれか

当たりかはずれか

 

 一昨日(4月13日)午後から峯ゼミの四つ玉指導に出席しました。実は、先月が第一回目だったのですが、その日は香港でのステージがあったので私と朗磨は休みました。私が出席するしないにかかわらず、峯ゼミ自体、大成が全てを担当していますので、ゼミは滞りなく進行しました。

 ところが今月は大成がステージの出演があったため、担当を朗磨が引き受けることになりました。朗磨では少々頼りないのですが、彼が全ての事務作業をしました。私は当日、出かけてゼミを拝見するのみです。

 今期の峯ゼミは、初回の内容、四つ玉を再度指導してもらいたいと言う希望があり、初回の参加を逃した人のために再始動を始めました。そのため参加者は7名でした。

 内容は、前回とほぼ同じでしたが、パスパームを詳しく指導したのは良かったと思います。又、一人ひとり詳細にチェックするのもいい方法でした。また、パームをしたまま長い時間手を腰あたりに置いておくのは危険だ、として、なるべく長い時間パームをしない方法の解説がされました。より実践的な指導になりました。

 又、四つ玉の基本的な姿勢である、右手手先に複数のボールを指に挟み、右手を伸ばしてボールを増やしたり減らしたりする動作、あれが角度的に危険であること、或いはボールやシェルを落としたときにアウトになってしまうことなど、よくある普通の動作が危険であることから、右手を体の前に持ってきて、体や、左手でホロウしながら演技をする方法など、個性的な扱いを見せてくれました。

 日本では四つ玉と言うと、韓国のルーカスを評価する人が多いのですが、基本的な考え方にメスを入れて、問題点を指摘し、更にその解決法を構築して行くと言う点で、峯村さんの考え方は相当によく考えられていると思います。このゼミをもし、ルーカスが見たなら、むしろ彼に大きな影響を与えることになるのではないかと思います。

 但し、飽くまで峯ゼミは、彼のマジックに対する考え方を、ある程度のレベルに到達した人のみに伝え、その人達の知識や技量を伸ばすために催していますので、ビデオ販売もなければ、指導書も作りません。(小さなテキストは毎回配っていますが、忘備録と言う程度の内容です)。

 何にしても、種仕掛けで商売することが目的なわけではないのです。むしろこのゼミの授業を受けた人の中から、将来の四つ玉のオーソリティが出てきてくれることを期待して催しているわけです。

 

 さて指導が終わって、駅前の居酒屋に入り、峯村さんと私で一杯やりました。朗磨はまだ飲めません。時刻は5時、まだ日があって暖かな季節です。この時間にアルコールがいただけるのは幸せです。この数か月峯村さんともなかなか会って話も出来ませんでしたので、久々楽しい時間を過ごすことができました。

 四つ玉はまだ二回のレッスンが済んだだけで、この先5回のレッスンがあります。

峯村さんのスライハンドに対する考えを知るにはいいチャンスです。四つ玉に興味のある方は参加されてはいかがでしょう。詳細は東京イリュージョンまでメール、電話などください。

 

 さて、世界では中国がひょっとすると大破産をしそうな話が伝わって来ています。不動産バブルの反動で、焦げ付いた物件が山積みで、地方自治体が建てた建物がそっくり赤字となっていて、その赤字額が、兆の桁を超えて、京の桁になっていると言う話を聞きます。

 本当かどうかはわかりませんが、私がかつて見た中国でも、人の住んでいないマンション群があちこちで見られましたので、このままでは危ないと言うことは私でもわかりました。更に産業の頼みの綱であるEV車が売れなくなり、半導体や携帯電話が売れなくなり、経済に大きな影響が出ています。

 中国は打つ手なしで一気に経済がしぼんで来ています。日米欧の企業がどんどん中国国内から撤退して行き、中国は国力を落としています。世界の経済を引っ張ってきた中国がこのような状況ではこの先が不安です。

 同様に韓国も、中国を相手に商売をしていたものが、中国の景気に陰りが出て来たために、それに連れて、韓国も失業者が増えて来ています。どうもこの二つの国は、かつての日本のバブルの時と同じように、これまでが景気が良すぎたために、生活を切り詰めることが出来ずに、いきなり大不況に突っ込むことになりそうです。

 そうなって日本だけが安泰でいられるわけはありません。かなりの不景気をかぶる結果になるでしょう。かつて親ガチャと言う言葉が流行りましたが、今は国ガチャと言う人があって、どこの国で生活しているかによって将来の生活が決まってしまう。と言う人がいます。

 確かに、いま中国の周辺で生きている、韓国、北朝鮮は勿論のこと、台湾や、香港も、中国が大不況になれば、いつ自国に危険が起こるかも知れません。そうした国で生活していては国ガチャのはずれを引いたことになるのでしょうか。

 ロシアも、今、いきなりウクライナに敗れることはないにしても、せっかくの石油や天然ガスの収入を、国民の幸福に生かせず、ウクライナで武器、弾薬にして浪費していて、このままで大丈夫なのかと不安になります。

 そのロシアの無謀に対して、NATOは欧州地域を守るために恐々としています。ロシアの征服欲が、ポーランドバルト三国に飛び火したなら一大事です。その欧州も、アメリカも、EV自動車の失敗が尾を引いていて想像以上に経済が乱れています。

 一帯この先世界はどうなるのか予測が付きません。それでも今、日本に生まれて生活していると言うことは、大きな歴史で見て見ると、幸せなことなのだと思います。日本だけは国ガチャが成功しているようです。大当たりではないまでも、何とかしのいで行けるのは幸せなことです。但し、うたかたの平和です。

続く