手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

春霞桜満開

春霞桜満開

 

 昨日(4月12日)は屋形船をチャーターして、花見で手妻を見る会を主宰しました。初めは20人も集まれば、と思っていたものが、徐々に増えて、29人の参加者になりました。船は大きいサイズを用意していただき、全席椅子席のパーティー形式の屋形船になりました。屋形船は畳座敷で座って食事をするのが一般的なのですが、最近はどうも畳に座ることのできない人が増えたようで、新しい船はどれもテーブル形式になったようです。

 JRの品川駅から東南に徒歩12分くらいのところにある、船清(ふなせい)さんに向かいます。タクシーに乗ればあっという間です。私は朗磨と一緒に、11時に入りました。ところがもうすでに富士のメンバーが集まっていました。この時点で少し雨が降って来ましたが、屋形船での花見ですから、心配はありません。外は明るいし、何より気温が暑くなく寒くなく、まことに快適です。

 

 屋形船は初めての方も多く、船が揺れるのを心配する人もありましたが、東京湾の湾内を巡るツアーならばまず大きな揺れはありません。

 私は何度か船清さんの依頼でお座敷を引き受けています。何しろ、お客様と一緒に船に乗って、食後に演技をするのですが、控室がありません。屏風で少し囲って、そこに道具を置いてセットすることになります。今回もそうした状況で事前に船に乗って、セットを始めました。

 12時10分前に乗船を開始して、12時ちょうどに出航しました。船清さんは品川運河沿いにはしけを立てて。10艘くらい船を持っています。ずらり並んだ屋形船は壮観です。

 船は出るとすぐに東京湾に入り、右にレインボーブリッジ、左に東京の中心の高層ビルが見えます。沿岸にはモノレールが走り、遠く向うの方にスカイツリータワーが見えます。

 はじめに船の揺れを心配していたお客様も、実際に動き出してみると殆ど揺れを感じませんから、安心したのか、くつろぎ始めています。テーブルには、オードブルや、刺身が並び、アルコールが次々に出て来ます。この日は飲み放題です。

 私も朗磨もセットを済ませていますので、席に座って、しばし食事を致します。この日、中島由美さんが参加され、私のテーブルに同席してもらい、しばしいろいろな話をしました。聞くと今は三重県四日市に住んでいらっしゃるそうで、この日も四日市から新幹線を乗り継いで来てくれたそうです。実際、富士の皆さんも、栃木の小山、足利から参加された方も、殆どが新幹線利用で来て下さった方ばかりでした。

 やがて船はお台場に到着します。ここで一度エンジンを止めます。船が安定したところで、てんぷらの油を加熱して、天ぷらコースを出します。これはこの季節の屋形船のお決まりコースです。天ぷらの中でもいいネタは、キスと穴子です。東京湾穴子は身がふっくらとしていて柔らかくいい味わいです。刺身と天ぷらならいくらでも食べられると思っていても、実際出されてみるとかなり満足してしまいます。

 

 お台場と言うのは今は臨海副都心として発展していますが、そもそもは、幕末期にアメリカのペリーが軍艦に乗って、日本に開国を迫ってやって来た時に、日本は海防の弱さに気付きます。西洋の蒸気船に対抗しうる船もなく、大砲も旧式で玉の飛距離が足りません。

 ぺーリーは翌年に再度やって来ると言い、その時に条約に調印してくれ。と言い残してひとまず去って行きます。その間に幕府は江戸湾の防御をしなければなりません。各大名に言って、湾内に防衛陣地を作りますが、肝心の大砲が足りません。藩によっては全く大砲がないため、お寺の釣り鐘を持ってきて大砲に見立てごまかすところまでありました。当然一発に玉も飛びません。役人お得意の数合わせです。

 しかも、日本の大砲は飛距離がないため、いくら湾岸に大砲を並べても役には立ちません。そこで、江戸湾に台場(人工島)を拵えてそこに大砲を据えればペリーの軍艦を沈められる。と進言するものがあり、幕府はすぐさま砂利と土を運んで幾つかのお台場を拵えます。一年以内に人工島を10島拵えようと言うのですから、江戸は上を下への大騒ぎになります。全くやっつけ仕事で4っつか5っつの島を拵えたところでペリーがやって来てしまいます。万事休す。これではアメリカに侵略されても仕方のない話なのですが、幕府はあっさり日米和親条約を締結してしまい、結果、アメリカとの戦いは避けれられました。そのため、大騒ぎをして拵えたお台場は使い道がなくなりました。それでも浅瀬が出来たお陰で穴子や、キスが良くとれるようになって江戸湾では天ぷらのネタに困らなくなりました。めでたしめでたし。

 

 さて、船が停車している間に手妻を演じることになります。私は双つ引き出しから始めて、柱抜き(サムタイ)、お椀と玉、そして朗磨が紙片の曲(袋卵、紙卵)、を演じ、お終いに蝶のたはむれを致しました。この手順は、お座敷の時の手順で、私の持つ手妻の中で最小手順になります。これで約40分です。

 演技が終わると、船は隅田川を登り、桜堤を見てターンをして、品川に戻ります。巧くすれば桜が一斉に散り始めて花筏が見られると思っていたのですが、どうしてどうして、まだ桜は健在で、この分では散り桜は翌週月曜日まで持ち越です。然し満開の桜の中、永代橋を見て、スカイツリーを眺め、のどかな東京湾の緩いそよ風を受けて、船はゆっくり品川に戻りました。2時間30分の船旅でした。こんな一日を体験するのは幸せなことだと思います。私と朗磨も日のあるうちに事務所に戻りました。

続く

卯の花の匂う垣根に

卯の花のにおう垣根に

 

 四月は卯月(うつき)と言います。卯月とは卯の花の咲く月のことです。今日の題名は、明治時代の歌曲「夏は来ぬ」の歌詞です。日本の古い文章は分かりづらいものが多く、夏は来ぬ、と言うと夏が来ないのかと思う人があります。「来るのかい、来ないのかい」と突っ込みを入れたくなりますが、夏は来ます。

 ウサギおいしかの山、と歌うと、おいしいうさぎが住んでいる山がある。と勘違いする子供がいるのと同じで、古い詩には注釈が必要です。

 この曲は短い詩に奇麗な曲がついてとても上品です。小学校か中学校で一度は歌ったことがあるのではないでしょうか。私はいつ歌ったのか忘れましたが、先ず、卯の花がどんな花なのかもよくわかりませんでしたし、更に、におおかきねに、と歌うのが何とも歌いにくく、ほととぎすはやもきなきて、と言う、まるで早口言葉のような言い方が理解できませんでした。その後の、忍び音漏らす、に至っては何のことかさっぱりわかりませんでした。

 ちなみに歌詞は、「卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」

 わたしなりの訳は、卯の花が垣根いっぱいに咲いて、香ってくる季節。時鳥が早々来て鳴いて、小声で話をする。 もう夏は近い。

 現代人では決して書けない詩です。作詞は佐々木信綱。

 ちなみに二番は、「五月雨(さみだれ)のそそぐ山田に 早乙女(さおとめ)が裳裾(もすそ)濡らして 玉苗植える 夏は来ぬ」

 田植えの季節を歌っています。今でこそ田植え機があって、機械がどんどん稲を植えて行きますが、私が子供のころまでは手で一つ一つ稲を植えていました。田植えを済ませた田んぼを見ると信じられないほど整然と稲が植わっていて、そのすべてが人が植えたと知ると、驚異的な光景でした。アメリカでも欧州でも、人が一本一本イネや麦を手で植えると言う作業はあり得ません。日本の田んぼは、勤勉な日本人によって1000年も前から驚異的な収穫率を上げていたのです。恐らく反当りの収穫率は世界一ではないでしょうか。江戸時代の日本の農家は貧しかったと言う人がありますが、同じ時代のアジアの国と比べるとはるかに豊かだったと言う研究家もいます。

 その田植えは、歌詞にも書いてある通り、早乙女と言う若い娘たちが横一列に並んで田植えをしていたわけです。全てが若い女だったわけではないと思いますが、村人が総出で集まって一斉に田植えを始めたのでしょう。それが祭のような華やかさだったそうです。

 

 話はどんどん脱線して、前置きが長くなりましたが、これが、卯の花の季節の風物詩だったのでしょう。但し、昔の月日は太陰暦で、一月ずれますので、昔の人が体感した卯月は今の5月のことです。そのため、歌詞の二番にあるように、五月雨が降って、雨水が山を潤し、里に流れて田植えの季節になるわけです。

 卯の花とは、宇津木と言う木に咲く白い花のことで、小さなたくさんの花がまとまって咲いて、一面白くなるので、昔は特に目立つ花だったのでしょう。今では、歌詞にあるような、宇津木の垣根一面に咲き誇る卯の花と言うのはなかなか見ることがありません。あれば今でも人気の小径になるでしょう。

 

 この宇津木と言う木は枝の中が中空で、中がストロー状になっていることから、空(から=からっぽ=うつつ)の木、で空木(うつき)と言っていたのです。空木に咲く花が空の花(うつのはな)、すなわち卯の花です。

 

 話は変わりますが、豆腐を作る時に大豆の搾りかすが出ますが、これをおからと呼びます。おからは人参や椎茸などを細かく切って、おからに混ぜて味付けをしたもの。おかずにもなりますし、酒の肴にもなります。健康食品としても人気があります。

 この大豆の搾りかすがなぜおからなのか、私は長いこと分かりませんでした。実は、おからは別名卯の花とも呼びます。それは、卯の花の白い花をお浸しにしたものと皿に盛ったおからがよく似ていることから、おからを卯の花になぞらえて出したのでしょう。

 空の花すなわちお空(から)なのです。何にしてもおからは大豆の搾りかすですから、搾りかすですとは言いにくいため、卯の花ですと洒落て呼び、更にはおからと呼んだのでしょう。

 随分と長い話になりましたが、宇津木がそもそも空木であったために、空木の花が空の花となり、空の花の色と大豆の搾りかすが似ている所から、空の花、空(から)を、おからと呼んだ。と言うわけです。随分おからと言う言葉が生まれるまでに長い時間がかかったことになります。

 

 おからをお空と書くことから、興行の世界ではお空が客席の空席を連想させ、観客の入りが悪くなるからと言って、昔から嫌ったそうです。実際古い芸人さんで、お空を出されると食べない人がいました。「こういうものは客が来なくなるから芸人は食べちゃいけないんだ」。

 と言っていました。なぜお客様が来なくなるのか、と言う詳しい説明がなかったものですから、私には意味が分かりませんでした。おからを空っぽと言う意味で理解していたのですね。昔の人はやたらと忌み言葉(いみことば)と言って、縁起の悪い言葉を嫌いました。楽屋に犬を連れて来ると、「犬は去ぬと言って、客が来なくなって縁起が悪いから楽屋に連れてきてはいけない」。などと言う師匠がいました。 でももう今ではそうした芸人もいなくなりました。私はかつて舞台で犬を出していましたし、お弁当も出されればおからも食べます。旨けりゃなんでも幸せです。

続く

宝くじの音楽

宝くじの音楽

 

 ジャンボ宝くじが発売されると、タレントみんなでジャンボ、ジャンボと踊り出すコマーシャルが流れます。あの背景に流れている曲は、ベートーヴェンの第7交響曲です。9つあるベートーヴェン交響曲の中で、生前から最も人気が高かった曲が7番でした。少し意外です。現代なら、まずはじめに5番の運命、次が6番の田園、その次が9番の合唱、といった順でしょうが、200年前の評価は違っていたのです。

 まず7番がとにかく人気、次が3番の英雄だったのです。ベートーヴェンの作品は難解な曲が多く、決して一般的ではありません。そうした中で、7番はリズミカルで、メロディーも聴きやすく、一般大衆に受け入れやすい曲だったのでしょう。今でも7番が一番好きと言う人は多くいます。

 長くベートーヴェン交響曲の指揮者として尊敬され続けてきたのがフルトヴェングラーで、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者でした。この人が亡くなったのは1954年。奇しくも私が生まれた年でした。

 亡くなって以降もフルトヴェングラーのレコードは売れ続け、1980年代に至っても、東京のレコード店ではモノラール版のフルトヴェングラーによるベートーヴェンが堂々売られていたのです。言ってみればドイツ音楽の神様のような人だったわけです。私もわずかな小遣いを投資して何枚かのフルトヴェングラーのレコードを買いました。

 然し、私はどうしてもこの指揮者が好きになれませんでした。むしろ同じ時期に売っていたメンゲルベルクの演奏の方が面白く、私は熱狂して聞いていました。この当時、フルトヴェングラーメンゲルベルクとを同列に語ることなど無謀で、常識的なクラシックファンなら、10人が10人フルトヴェングラーを支持していました。然し、私にとっては、どうしてもフルトヴェングラーは好きになれなかったのです。

 その理由は、どの演奏も重たく、低く雲がかかっている欧州の空のように、何とも憂鬱で暗いのです。しかも、ベルリンフィルの音色がこれまた陰気臭いのです。カラヤンが指揮をするようになってからのベルリンフィルは幾分明るくなりはしましたが、フルトヴェングラーの時代の演奏は、お化け屋敷に足を踏み入れたかのような、暗く重たく怪しげなのです。その差は、同じ曲をウィーンフィルや、アムステルダムコンセルトヘボウと聴き比べると歴然です。

 但し、演奏家や作曲家が陰気で暗い性格をしているから悪いと言うものではありません。陰気でもチャイコフスキーブラームスはいい曲を残しました。ベルリンフィルも世界一流のオーケストラで、私がとやかく言う立場ではありません。ただ好みに合わないのです。

 本来、ベートーヴェンの第7番はさほどに陰影のある音楽ではないはずです。言って見れば、数人の仲間と町のビアホールに入って、ビールを飲み、歌を歌って帰ってくる。そんなひと時の情景を思わせるような陽気な曲です。

 ところが、フルトヴェングラーに掛かると、その陽気なメロディーの隙間に潜んでいる、人生の不幸や、悲しみを探し当てて陰影を刻みます。いやいや、ちょっと待って欲しい、ベートーヴェンはそこまでこの曲を深読みして欲しいとは望んでいないはずです。同様に6番の田園でも、のどかな田園風景を歌い上げる交響曲が、フルトヴェングラーが演奏すると、親の危篤に間に合わせようと急ぎ田舎に向かう倅の心境のように重たくなります。

 「どうしてこの人はこうも暗いものの考え方をするのだろう」。と思います。人間の苦悩を語る5番の運命や、部下の命を預かるナポレオンが様々に苦悩する3番の英雄ならば、思いっきり掘り下げて演奏するのは理解できますが、6番7番は違うだろう。と思います。そのため、フルトヴェングラーは好きになれなかったのです。ところが、1970年代80年代の日本では、この暗い演奏を神のように崇めるクラシック愛好家で溢れていたのです。

 

 と、前置きが長くなりましたが、このところ、パソコンで、古い演奏のレコードがたくさん聞けるようになりました、そこで、フルトヴェングラーの演奏したベートーヴェンの7番を違う年代順に、連日にわたって3枚聞いて見ました。こうした聴き方はかつてなら、金持ちの超マニアにしかできなかったことですが、今は私でも出来るようになったわけです。

 

 一枚目は1943年、敗戦が濃くなってきたベルリンでの演奏。二枚目が戦後、1950年のウィーンフィルを指揮した演奏。3枚目は1953年、晩年のベルリンフィルとの演奏。私が若いころ聞いていた演奏は、1943年の戦時下での演奏で、時代を反映したのかどうかはわかりませんが、指揮の仕方は激しく、暗く、すさまじいばかりに誇張された白熱した演奏でした。

 第4楽章などは通常、コーダー(終結部分)はどの指揮者も興に乗って来て、テンポを速めて華麗に終わるのですが、フルトヴェングラーのそれは、もう第4楽章の半ばで既にアッチェレランド(テンポアップ)をかけていて、既に暴走モードが始まっています。そのため、コーダーになるとオーケストラもついていけないくらいのスピードになってしまい、ここは今聞いても興奮します。

 

 ところが同じ指揮者でありながら、1950年のウィーンフィルの演奏は、解釈はほとんど同じでも曲の雰囲気が陽気なのです。ウィーンフィルの独特の明るい音色の管楽器などが自然に楽し気な雰囲気を作りだしています。1943年の極端な切迫感はありませんし、つんのめって演奏するコーダーもありませんが、全体を聴くとこちらの方がこの曲にはぴったり合っているように感じました。

 むしろ、この演奏を若いころに聴いていたなら、私はフルトヴェングラーの熱烈なファンになっていたでしょう。フルトヴェングラー最高の第7は1950年の演奏です。

 

 さらに1953年のベルリンフィルとの演奏は、かつての陰気臭い重たい演奏は影を潜めていて、現代の音色に近い演奏になっていました。しかし残念ながら、肝心のフルトヴェングラーに少し衰えが見られ、ここぞと言う時の迫力が薄れてしまいました。その分安定した演奏ではありますが。

 

 当然ですが、同じ指揮者でも指揮者の年齢、時代背景、オーケストラによって、演奏がかなり変わります。そんなことは当然なのですが、わずかな小遣いの中で高価なレコードを買っていた者としては、1943年のフルトヴェングラーこそが唯一と信じていました。それは結果として人を一面からしか見ていなかったわけで、今こうしていろいろ聞き分けられるのは幸せです。連夜の第7は私にとっては贅沢なひと時でした。

続く

鶏が卵を産まない

鶏が卵を産まない

 

 日本が明治維新になってすぐ、政府が日本中に鉄道を敷き始めた時に、当時の農家は鉄道という西洋文明が理解出来ずに、農地や家の前を鉄道が走ることに大反対をしました。反対の理由は、「汽車が通ると、その騒音で鶏(にわとり)が卵を産まなくなる」。と言うものでした。

 今では考えられない話ですが、当時は、機関車の音や、あの石炭の煙に驚いて、鶏が卵を産まなくなるから鉄道を敷かないでくれ、と沿線の農家は反対したのです。当時の農家の養鶏は、ほんの数羽の鶏を庭で飼っていたレベルで、一日二個、三個と言う、わずかな卵の収入と、鉄道を敷くと言う国家事業を天秤にかけて反対をしたのです。

 何てレベルの低い国民だろう。と現代人ならば思うでしょう。そんなのは明治時代のことで、さすがに現代にそんな人はいないだろう。と思っていると、いました。静岡県知事の川勝平太さんです。

 リニア新幹線が、静岡県の北部山間地をわずかにかすめて通過します。ここにリニア新幹線のトンネルを通すと、大井川の水質が落ち、水が流れにくくなる。だから工事に反対する。と言うもので、実際工事の不許可を続けました。

 JRが建設するトンネルでどれだけの水量が失われるのかはわかりません。然し、大井川のような裾野の広い川が、一つの水脈でいきなり水量が激減するとは考えられません。どう考えても言いがかりでしょう。

 JRとしては、周辺の地質を調査して、「もし水が不足するようなことがあれば、周辺の水脈から水を運んで流す方策を取る」。と提案したのですが、川勝知事はその考えを聞かず、ひたすら反対を続けました。

 それがためにほぼ10年、リニアの工事は遅れ、今年になって、2027年の東京名古屋間の開通には間に合わないと言う結論になりました。庭で鶏を飼っている農家が国の発展を遅らせたのです。然し、この間に多くの人から知事に対する批判が集中し、更には知事の日ごろの失言なども祟って、川勝知事は辞任することになりました。

 その席上で知事が周囲に漏らした発言が衝撃的で、「リニア新幹線を10年近く工事を遅らせたことで知事の目的を達成した」。と言ったのです。川勝知事の本当の狙いは、鶏が卵を産まないことの無知から出た話ではなったったことが見えてきました。

 つまり静岡県にすれば、リニア新幹線が開通しても、新駅も出来ず、列車が通過するのみですから、メリットがないのです。そればかりか日本の東西を走る新幹線が二本出来たなら、きっと従来の東海道新幹線の列車本数は少なくなると予測したのです。そうなると、そもそものぞみの停車しない静岡県は、こだまの本数が減って不便になる。結果、静岡の経済は大きく停滞する。だからリニア新幹線は反対だ。と言う理由になるようです。

 驚きです、地元のエゴのために国のプロジェクトを邪魔しようとしたのです。仮に、こだまの本数が減ることが事実だとしても、それで10年リニア新幹線の開業を遅らせることに何の意味がありますか。どっちにしろリニア新幹線を作らなければならないことを、ひたすら邪魔をする意味がありますか。嫌がらせをしただけではないですか。

 このことは、川勝知事とそれを支持した静岡県民が世の中の大きな流れに逆行していることを意味します。明治初期。かつて東海道線を引くときに、大井川に鉄橋を作ろうとすると、「鉄橋なんて作られたら我々が生活できなくなる」。と大井川の両岸にいる、旅人を背負って川を渡る人足達が大反対をしました。

 大井川は大昔から交通の要所で、ここに橋を作ると、もし、江戸を攻めに来る軍勢がやって来た時に、易々と通行してしまうため、江戸幕府は二百数十年間、大井川に橋を作らせなかったのです。橋がないため、旅人は人足に渡し賃を支払って背負ってもらい、大井川を渡る。という信じられないような不便を強いられたのです。

 結果として、橋を作らないことで、人を背負って暮らしている数十人の人足の生活は守られましたが、日本の経済は数百年間停滞しました。これと同じことを静岡県はやってのけたのです。

 川勝知事は、早稲田の大学院を出て、更にオックスフォード大学で博士号を取っている秀才です。それほどの人でありながら、物事の大小、軽重が分からずにしばしば意味不明な、歴史に逆行するような行動をとりました。

 更には、自身のプライドが邪魔をするのか、度々他人を差別する発言をして、数々の舌禍を生みました。頭がいい人が必ずしも正しい行いをするとは限らないようです。

 数日前の、自民党のバックリベート問題も同様で。やってはいけないことと知りつつ平気でやって、さてばれてしまったら、反省も謝罪もどこかにすっ飛んでしまい。もう頭の中は次の選挙のために如何に罪を軽くしてもらって、まるで今回のことが人生に降りかかった災難のような態度を見せています。国民に対して果たす責任はどこへ行ったのか。そんなことをいくら言っても無駄なのでしょう。頭のいい人は、その頭脳を自分のために使うのです。世のため、人のために生かそうなどと言う奇特な人はめったにいないのです。

 川勝知事は、案外静岡県民思いなのかもしれません。県民の経済発展を願って、ひたすらリニア新幹線を邪魔したのですから、十分静岡県民の役に立ったのでしょう。それゆえ、静岡県民はこの知事を支持し続けた?のでしょうか。

 いつの時代でも人は庭で鶏を飼う農家の親父にもなりますし、大井川の人足にもなります。まさか今どきこんな人はいないだろう。などと高をくくってはいけません。自分に不利益なことが起これば、人はいつでもどんな人にもなります。人だけではなく、狼にもなれば犬にもなります。オックスフォードを出ていても、狼にも犬にも、やくざにもゆすりにもなるのです。知性だの、理性なんて天から当てにはならないものなのでしょうか。

続く

寂しくて寂しくて

寂しくて寂しくて

 

 大谷選手と水原一平さんの問題は、未だ解決してはいませんが、世間の話題からは徐々に遠ざかりつつあります。然し、大谷選手の心のうちはまだ回復していないように思えます。毎日試合に出ている大谷選手を見ると、心なしか寂しげです。

 こと野球に関しては超人的な才能を持った人ではありますが、その分、全てのことを犠牲にして、野球のみに集中して生きてきました。そのため、大谷選手には付き人が必要なのです。

 通訳。自動車の運転。買い物。ファン対策。スケジュールの把握。スポンサーとの契約。パーティーへの出席。テレビ出演。インタビュー。日常の些細なことでも、大谷選手にとっては分からないことだらけです。そのため全てのことをやってのけるマネージャーが必要なのです。

 慈善団体から寄付の依頼の手紙などやたらと届くでしょう。それらをどう扱うのか、どれが正しくて、どれが詐欺なのか、恐らく大谷選手には調べるすべもないでしょう。その日にスーパーマーケットで買った野菜や肉も、本当に適正価格だったのかどうかもわからないのです。こうしたことは日頃他の店の商品と比較することで相場を見る目が養われて行くわけで、買い物をほとんどしない大谷選手には、レタスの価格も卵の価格もわからないのです。

 普通に社会に暮らす人からすれば、何でもない日常のルールを、大谷選手は何一つわかっていないのです。そのことで当人は、日々大きなプレッシャーを抱えているはずです。世の中の仕組みが分からない、とか、常識が分からないと言うことは、心の不安につながります。

 それらすべてのことを水原一平さんに任せていたため、いきなり一平さんがいなくなってしまうと、何から何までどうしていいのかわからず、不安が募るのでしょう。

 「それを奥さんに頼んだらいいじゃないか」。と思う人もあるでしょう。これは私の推測ですが、大谷選手は、奥さんを自分の仕事場に引き込むことを絶対にしたくないのでしょう。もしマネージャーの仕事を奥さんが引き受けてしまうと、大谷選手にすれば、プライベートな生活も、野球もみんな一つになってしまい、プライベートが無くなってしまいます。

 そうなると大谷選手は心休まる時がないのです。野球の時には野球に没頭して、いざ家に帰って夫婦で生活をするときには一切野球に関する話がない、そんな生活がしたいのでしょう。その気持ちはよくわかります。

 私事で恐縮ですが、私の家では、一階のアトリエと二階の事務所まではマジックの道具が置いてありますが、三階から上の自宅スペースには一切マジック道具はありません。あえて持って行かないようにしています。そうしないと、いつでもマジック漬けの生活になって心が休まらないのです。どこかで区切りを付けないと、気持ちの切り替えができません。

 大谷選手も同じなのでしょう。奥さんにマネージメントはさせられないのです。恐らく奥さんには野球の話をしないように求めているのでしょう。奥さんといる時だけは気分を変えたいのです。その気持ちはよくわかります。

 有名人は毎日たくさんの人と顏を合わせることで、知らない知識を身に着けている。と考えている人がいますが、実際、人とたくさん会うことはしても、ほとんどは挨拶をするのみで親しく話をすることはありません。むしろ有名になればなるほど人との付き合いは狭くなり、同じ業界の人とばかり話をすることになります。人間関係は物凄く狭くなります。そうした中、少しでも変わった考えの人と会いたい。別の知識を学びたい。と思う気持ちが強くなります。その時、せめて近しい人たちからでも、違う考えで生活している人と話がしたいのです。家庭を持つと言うことは全く違う生活をしている人と語り合うチャンスなのです。

 話を戻して、当面、一平さんに変わるマネージャーが至急必要になります。通訳とマネージャーが別の人でもいいでしょう、とにかく人が必要です。然し、これが簡単には見つからないのです。

 何しろ朝起きてから夜眠るまで、付きっ切りで大谷選手の面倒を見なければならないのです。一日の労働時間は15時間に及び、一週間の労働時間は100時間に及ぶでしょう。何から何まで先回りをして、仕事をしてくれる、そんな片腕が必要なのです。

 大谷選手にすれば、内心は、一平さんに対して、金を盗んだことはなかったことにして、明日からでもまた働いてもらいたいのでしょう。然し、それは許されません。

 世の中のことが何から何までうまくいって、全てを自身が手に入れることなどできないのです。奥さんを手に入れると、一平さんがいなくなってしまいます。両方いたならどれほど幸せだったことか、いなくなって一平さんのありがたみが分かります。

 

 同時に、一平さんにすれば、野球以外のことは何もわからなくて、それでいて、何十億もの金を簡単に稼いで見せるような怪物が自分の近くにいたのなら、世間知らずに付け込んで、少し横領したい気持ちになるのかも知れません。

 少しくらい廻してもらいたい。と思って使い込んでいくうちに、いつしか誰の金だかわからなくなって行きます。

 恐らく一平さんは、昨年の大谷選手の輝かし活躍の中で、「このままでは自分と大谷選手との関係も終わってしまう。どうしたらいいだろう」。と一人悩んでいたことでしょう。

 そんな時にギャンブルで一発逆転して、パッと借金が返せたなら、どれほど幸せだったことか。ところが世の中はそんな風に上手くは行きません。消えた金は戻らないのです。大谷選手が日々レジェンドの伝説になってゆく過程で、一平さんの人生は逆風が吹きまくり、ついに破局を迎えたのです。

 一平さんは大谷選手の数億円の金を溶かした男として、ラスベガス当たりのカジノの支配人でも引き受ければ、名物男として人気が集まるでしょう。大王製紙の井川さんじゃありませんが、居直って生きたなら生きて行く道はいくらでもあります。

 ただ、大谷選手は寂しげです。思っていた以上にメンタルの弱い人なのです。早く心を平常に維持して、野球にシフトして行ってください。

続く

足りない足りない

足りない足りない

 

「政治には金がかかる」。それはその通りでしょう。全く活動費用なくして政治活動は無理です。だから、国会で政治資金を助成して、活動費を国の予算から出すようにしたのではないですか。毎年各政党に相当な金額を支払っています。

 でもそれでは足らないようです。足らないならなんとか自分たちで資金を作ろうと、政治家は、政治パーティーを開いて、そのパーティー券から政治家個人にお金がキックバックするように、リベートを考え出しました。

 巧い方法です。これなら国民にばれずに、資金が集まり、政党助成金もそのままもらえて、まさに二重取りで、充分活動資金も潤うでしょう。それを長い間続けて来て、その間、キックバックの収入は所得に記載しませんでした。これが永久にばれなければよかったのでしょうが、ある日ばれてしまいました。

 一連の行為は脱税です。先ず政治家が活動資金を手に入れたのなら、資金を報告しなければいけません。報告もしない、税金も支払わない。これは犯罪です。国会議員が脱税したら、もう国の在り方の根本が問われてしまいます。国会議員だけが脱税が許されるのは不平等です。どうせならサラリーマンも、ラーメン屋も芸人も脱税していいことにして下さい。

 と、いくら言ってもそうはいかないでしょう。国会議員は立法府の政治家です。立法府とは自らが法律を作ることのできる人たちです。議員の年収ですら、自分たちで決められるのです。こんな有り難い特権はありません。言い放題のやり放題です。これまでも、議員歳費は勿論のこと、新幹線に乗ることもタダですし、海外視察に行くことも国費でできます。そうした特権を下々に手渡すことはあり得ないのです。

 然し、キックバックがばれてしまってはやむを得ません。自民党は、昨日(4月7日)バックマージンを企画した政治家、バックマージンを貰った政治家に処分を下しました。すると、政治家の間から、その処分の仕方が、岸田首相の一派には甘いだの、二階さんや、森さんには軽いだの。刑の軽重に不満を言う政治家が現れました。

 泥棒が一度に何十人も捕まって、その中で、「俺は大して盗んでいない」。とか「指示したのはあいつだ。俺はただついて行っただけだ」。と言っているのです。結局貰ったことは事実だし、脱税したことは事実です。

 こんなことで内紛を続けていたら、自民党の支持者は激減して、政権の座を失います。自民党が危機であることは誰が見てもわかります。でも、そうは言いながらも、自民党はたいして焦ってもいません。普通なら、自民党の体たらくは、野党のチャンスであるはずなのに、それじゃぁ、どの野党が自民党にとって代わって政権が取れるのかと言えば、どこも頼りないのです。

 一党で政権が取れる野党は一つもありません。全野党がまとまれば自民に対抗できますが、例えば、保守党や、維新の会や自由党共産党と組めますか。立憲民主党は、大きくまとまれますか。仮に自民党を追われてバックリベートを貰った政治家を野党に引き入れたとして、それで清く正しい政党が作れますか。

 うまく行かないですよね。上手く行かないことは国民も知っているのです。だからただただ失望しているのです。「自民党がだめでも、野党に任せるよりはましかなぁ」。そんな風に考えている人が大勢いるのです。

 「右も駄目なら左も駄目」。これでは閉塞状態です。こんな時こそ突然、パッと飛び出してきて、人をまとめて、希望を抱かせてくれるような政治家が現れませんか。国民に方向を示せる人は出ないものでしょうか。

 その昔は王様が権力を握っていて、個人の裁量でことが決まってしまうことに弊害がありました。そうならないために民主主義が生まれて、選挙によって代議士ができ、法律によって政治をして行くようになりました。然し、その代議士が結局仲間を募って自分たちに都合のいいシステムを作り合法的(あるいは非合法的)に犯罪を犯すようになりました。結局民主主義は役に立たないのでしょうか。でもそれに変わる政治手法が見つかりません。どうしたらいいのでしょうか。

 

 ところで、話は少しずれますが、これだけ災害の多い国なのですから、災害に備えるために、自衛の組織を各町内で作っては如何でしょう。いざと言う時の食料、飲料水の確保。仮設住宅を事前に用意して。何かの時に備えて、半ボランティア組織を作ってはどうでしょう。

 江戸の昔の町火消ではありませんが、各町がボランティア組織を持って、国や自衛隊にばかり頼るのではなく、日ごろから自分たちで自分たちの地域が守れるようにしなければ、実際の災害が起こったときに、食べるものも、住むところも無くなって、ただ人頼みでは情けないですね。

 中には災害省を作れ。と言う人もあります。でもどうでしょう。省を増やせば税金がかかります。災害省で、薬を調達したり、プレハブ住宅を購入すれば、そこにまた利権が絡んで、一儲けする政治家が現れます。仮に市町村にその業務を頼んでも結果は同じでしょう。担当職員を増やし、職員の給料から、ボーナスから、年金から定年後の再就職まで面倒みると言うのは、災害から町の人を守るのではなく、職員の生活を守る結果にしかならないのではないですか。

 一昔前なら、「国が何とかしろ」「市が何とかしろ」。と騒いだのですが、そうして何でもかでも市町村や国に頼ることが、逆に人々を食い物にして、国も、県も、市も、いらぬ箱モノを作って大赤字を抱えて、各市町村は瀕死の状態です。結果として税金の無駄遣いで、建築屋さんと市の職員は安定した生活ができましたが、その分市民の負担は大きくなって身動きできなくなっています。どうも政治に頼るのは危険です。

 どこの誰かもわからない人に投票することからしてそもそも危険な行為です。無駄に税金を使わず、天下り組織や職員を増やさないようにするには、目に見える範囲の町の有志、例えば50人程度の町内の人から有志を募って、自衛の活動をして行った方がいいのではないかと思います。

 政治家はそうした地域のボランティア活動を10年した実績の人が、地域の仲間の支援を得て、市会議員や、県会議員となり、更に地域ボランティアを10年して、国政に出てはどうですか。知らない人を政治家に選ぶのではなく、よく働いてくれる、見知った人を手堅く選ぶ基準を作りませんか。

 輪島や珠洲市の災害をニュースで見ていると、働いている人のほとんどが町の有志であり、市の職員です。「こんなときに人のために働いてくれる人が政治家になるべきだなぁ」。と思いました。

 続く