手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

カムイコタンの初雪 1

カムイコタンの初雪

 

 またも古い話になりますが、私が20代でキャバレーに出演していたころ、北海道のキャバレーには毎年2度ほど出かけていました。一度出かけると、約一か月、道内を回ることになります。大学を卒業してすぐのころ、私は東京で一日、一晩に二回キャバレーに出演して、一万円のギャラを貰っていました。

 当時は、日本中で200人くらいのマジシャンしかいませんでしたから、若くて、見てくれが良くて、スライハンドが出来て、燕尾服が似合えば、キャバレーは大忙しでした。私は毎月20日くらいキャバレーの仕事をし、寄席やパーティーの仕事も合わせると、30万円近い収入を得ていました。

 昭和52年ごろ、当時の大学出のサラリーマンの月収が5万円くらいの時、ただマジックができると言うだけの23歳の若者が30万の収入を上げていたのです。

 北海道に行くと、一か所のお店を三日ずつ、月火水、と出演し、翌日、別の町のキャバレーに行き、木金土、と三日出演します。場所は、小樽、旭川、帯広、釧路、あらゆる町に出かけます。そして、日曜日は札幌に行き、事務所が取ってくれているホテルに泊まって、その晩は休みです。

 当時すすき野の町を歩いていると、たくさんの芸人さんに会いました。勿論マジシャンもたくさん歩いていました。マジシャンやお笑い芸人を見つけては、よく一緒に飲みに出かけました。

 

 北海道は、ひと晩3回ショウを演じますし、地方公演と言うこともありますので、一日1万2千円貰えました。そして、25日間びっしり仕事をしますので、道内を一回りすれば2か月分の収入がありました。勤め人の何倍もの収入になって、知らない町に行き、毎日ショウをするのですから、こんな面白い事はありません。

 但し、一晩に3回の舞台と言うのが大変です。当時のマジシャンは1回15分の演技を2つ持っていました。本土の町の公演なら手順は2つあれば十分なのです。然し、北海道だけは3回やらなければなりません。

 なぜ3回なのかと言うと、北海道では夕方6時から店が開いて、12時まで6時間みっちり営業するのです。そしてその間6時間酒を飲み続けているお客様が少なからずいるのです。小さな町だと、他にキャバレーもなく、綺麗なお姉さんがいる店も少ないし、外は寒いので、一か所にお客様が入り浸るのです。

 そのお客様から、店はショウチャージを取るために、一晩3回ショウをするのです。多くのマジシャンは、1回目と2回目はショウの内容が違いますが、3回目は元の1回目の手順を演じます。ところが一か所に3日いるわけですから、お店のホステスは、同じショウを最大6回見ることになります。そうなると、ショウの興味が薄れ、ついつい雑談が増えて、お客様もショウに集中しなくなります。

 私はこれではいけないなと思い、三本目の手順を作りました。つまり、鳩出しとカード、ゾンビボールの手順。ロープ、シルク、12本リングの手順。そして和服を着た手妻の手順。更に、それぞれの手順の真ん中に喋りの演技が入りますが、それをすべて、3日間取り替えて、9手順作りました。そうなると、道具、衣装、譜面、自分の着替えで、荷物が膨大な量になりました。スーツケース2つ、鳩の篭、譜面の入ったバッグ。衣装ケース。全部で5つの荷物です。50キロ近かったと思います。それでも20代前半の私は元気だったのです。荷物の重さもなんとも感じません。

 ある時、雪で飛行機が遅れて、そのまま千歳から列車に乗り、札幌駅に着いたら、私が乗る北見行きの特急が発車3分前でした。これに乗り遅れると次の特急は三時間後になります。そうなると、北見のキャバレーの1回目のショウが間に合いません。

 そこで、列車が札幌駅に着いた途端、5つの荷物を持って北見行きのホームまで階段を上がり、全速力で高架を突っ走りました。今でもその時のことを思い出しますが、信じられないくらいホームが遠かったことを覚えています。とにかく高架を走っていると特急の発車ベルが鳴り始めました。「まずい」。あわてて、階段を飛び降りるようにして、特急に飛び乗った瞬間、特急のドアが閉まりました。間に合ったのです。

 間に合ったのですが、ドアの内側でへたり込み、そのまま30分間動けませんでした。火事場の馬鹿力と言いますが、まさにそれで、あまりに重い荷物を持ち続けて走ったため体が動きません。これほど苦しくつらい思をしたことはありませんでした。

 北見に着くと町はマイナス18度でした。人通りはありません。然し、お店は早くから満席でした。新規手順をたくさん持って行ったため、お店は大喜びです。特に3回目のショウは、着物ですから、ホステスは歓喜して見てくれました。

 すると三日目に、社長が、「あんた、評判いいから、明日も残ってマジックしてくれる?」と言います。「でも明日は日曜日ですよ」。「うちは一年中休みがないの、だからあんたが残ってくれたら、一日分は明日現金で渡すよ」。

 いい話です。そこですぐに札幌の事務所に日曜のホテルのキャンセルを伝えました。私は三日目も喋りの内容を変えて演じたため、店は喜んでくれました。そして、社長から封筒を貰ったのですが、開けて見ると、2万6千円も入っています。「どうしてこんなにくれるのだろう」。とにかく余分に貰ったお礼を社長に伝えると。「いや、一日分を渡しただけだよ」。と言います。

 そうなんです。よく考えて見たなら、私を使って札幌の芸能事務所が3割儲け、東京の事務所が3割儲けていますので、26000円の金が巡り巡って私には1万2千円になるのです。

 さてそれから、行く店、行く店、日曜日も使ってくれて、更に、4週間の予定が一週間伸びて、たくさん収入を作って東京に帰ってきました。しっかり仕事をすれば、十分報われることに気付き、それ以後、私は、車で荷物を運ぶことにしました。車でカーフェリーに乗り、苫小牧まで行き、道内を一か月ショウをして回るようになりました。

 事務所からもらう交通費は、車の経費を考えると、半額くらいにしかなりませんが、向こうに行ってしまえば、移動は楽ですし、何より、あの札幌駅の特急に乗るための全速力疾走がトラウマとなって、費用はいくらかかっても以後は車移動と決めました。

 ところが、そこで冬タイヤを持たずに走行したため事故を起こします。その話はまた明日。

続く