手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

カムイコタンの初雪 3

カムイコタンの初雪

 

 北海道を年に2回、キャバレー出演で回り始めたのとほぼ同じころ、九州四国中国地方のショウの出演をしているうちに、この地域のアマチュアさんと親しくなり、指導をすると、予想以上に喜ばれ、「年に2,3回指導で来てくれませんか」。と言う依頼を受けました。この時代、ステージマジックを指導するプロは殆どいなかったのです。

 前にもお話した通り、当時のプロは、15分の手順を2本持っていれば、20年でも30年でも生活して行けたのです。このため、自身の手順以外のマジックを研究すると言う人が少なかったのです。

 私は、指導をするのではなく、仕事の合間に地方のプロやアマチュアを訪ね、珍しいマジックを知っている人や、資料を持っている人を訪ね、授業料を支払って、マジックを習っていました。当時、私のように、人を尋ねてあれこれマジックを習いに行く、と言う人は私の知る限り見当たりませんでした。

 海外に出かけた時も同様で、実力あるマジシャンにレッスン料を支払って、マジックを習いました。そうしたことが、徐々にではありますが、自身の知識を増やしていったと思います。

 学生だったころは指導を躊躇っていましたが、その後、指導を熱心にするようになりました。九州四国中国地方の12か所のマジッククラブとつながって、年に2回乃至3回、指導して回るようになりました。初めは、イベントやキャバレーの仕事が来ると、それを核にして指導をしていましたが、12か所のレクチャーコースができると、もう、交通費の心配をせずにいつでもツアーが出来ました。

 

 少し話がそれましたが、北海道は、一度出かけると、仕事の本数が多いため、安定して指導をして回ることが出来ました。私は、特別指導をすることに思い入れがあってしていたわけではありません。当時の私は収入が欲しかったのです。年に2回のリサイタルは、出費が大きく、一回に100万円以上の費用が掛かりました、二回で年間200万円です。簡単には作れません。海外旅行も費用が掛かりました。それを北海道と、九州の収入で賄っていたのです。

 私は大してうまいマジシャンではありませんでした。然し、人付き合いを大切にすることと、ちょっとした工夫を常に演技に取り入れることで、周囲の信用を得ていました。大した工夫ではないのですがキャバレーの社長さん等に可愛がられて、キャバレー以外でもよく仕事を貰いました。刑務所や、老人施設、孤児院の慰問などもしました。

 私はそこそこいい稼ぎをしているマジシャンだったのですが、常に収入は不足していました。「なぜこうもお金が足らないんだろう」。といつもあくせくしていました。でも考えて見たなら、こうしたことは私に限らず、何かを成したいと思う人は、常にお金が足らないのでしょう。

 北海道は大学在学中からキャバレーに出ていましたが、26くらいになって、いつまでも地方のキャバレーに出演し続けていていいのか。と自分自身を攻め立てる、もう一人の自分が心の中に生まれて来ました。「安易な仕事を続けていて、この先どうするのか。自分は本当は何がしたいのか」。と、心の声が聞こえてきます。

 その声は、アメリカでレクチャーツアーをしていた時にも聞こえました。北海道や九州でしていた指導旅行と同じことを規模を大きくしてアメリカでもやっていたのです。然し、私は指導家になることが目的ではありません。マジシャンとして、独自の世界を作りたかったのです。徐々に、キャバレーの仕事に限界を感じるようになりました。

 

 26歳の時に、岩内のキャバレーに出演しているときに、昼間が暇でしたから、丘の上にある道営温泉に行きました。日が暮れ始め、岩内湾を見渡せる湯船につかっていると、イカ釣り船の灯りが湾内のあちこちで灯されます。北海道ならではの光景です。

 そこへ、脱衣所から、武田鉄矢さんの唄で、思えば遠くへ来たもんだ。と言う歌が流れて来ました。「思えば遠くへ来たもんだ、この先どこまで行くのやら」。何の意識もないまま聞いていました。そしてなぜか涙が止まらなくなりました。

 今キャバレーに出演して、昼にマジック指導をする生き方には何の不足もありません、然しこれをよしとしていては先がない。ここは生き方を変えようと決心します。

 

 黙阿弥の芝居に、「いかけ松」と言う芝居があります。まじめな鋳掛屋(穴の開いた鍋に鋲を打って直す仕事)の松五郎が、仕事を終えて、夕暮れ時に両国橋を通ります。橋の下には屋形船が通っていて、よく見ると、自分と同じ年頃の若者が、何人もの芸者を上げて、屋形船を仕立てて遊んでいます。それをじっと見つめていた松五郎が、「あれも一生(と言って相手の姿を見つめ)・・・これも一生(と言って、汚れた身なりの自分の姿を見つめ)」つぶやきます。そこへ団扇太鼓を激しくたたいて、日蓮宗の一行が通りかかります。宗派と自分の境遇を掛けて、

「こいつは宗旨を(チョーン)替えにゃぁなるめぇ」。と言って序幕が閉まります。こうして松五郎は江戸一番の盗人になって行く、その発端が、両国橋の場です。

 この時、岩内湾を眺めていた私は、木頭こそ入りませんでしたが、この時にキャバレーを止める決心をしました。別段、盗人になろうと決心したわけではありません。

 

 その後、旭川のキャバレーに出演し、ここが北海道の最終日でした。頃は9月です。まだかろうじて冬にはならず、何とか夏タイヤで苫小牧まで帰れるだろうと考えていました。三日間のショウを終えて、深夜に国道を車で走っていると、カムイコタンにさし掛かります。随分と寂しい所です、道は緩い上り坂です。

 「これ位の坂なら何でもない」。と思って上って行くと、雪が降ってきます。道は深夜で凍結しています。それでももうじき峠だと思っていると、車が止まり、徐々にバックしだします。アクセルを押してもタイヤは空回りするだけです。結局車は坂の始めまで戻ってしまいました。少し心が不安になって来ました。

 「よし、もう一度」。アクセルをふかし、再度上ります。この坂道はかなり長い直線です。峠を目前にして、またも車はバックします。国道で、しかも幹線道路です。もしトラックや乗用車が来たなら大事故になります。誰も来なくて不幸中の幸いでした。

 そこで一つ工夫をして、坂よりも前、200mくらいまで戻って、そこから加速をして上って見ました。以前の定山渓のスピンの一件もあります。あの危険を再度繰り返したら、今度は助けもないまま凍死してしまいます。

 幸い登り切りました、そこから苫小牧までの道は200キロ以上あります。深夜で、国道が凍結していて、行きかう車も殆どありません。それでも何とか無事に苫小牧までつきました。こうして私の北海道のキャバレーの仕事は終わりました。今では楽しい思い出です。

カムイコタンの初雪 終わり