手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

流れをつかむ 1

流れをつかむ 1

 

 長くマジックの活動をしているといいときもあれば、うまくゆかないときも何度もありました。昭和57年に、オイルショックの影響で会社の接待費が大きく削られたときに、日本中に3万件もあったキャバレーが1,2年のうちにすっかり消えてしまいました。キャバレーを根城にして活動していたタレントはたくさんいたのですが、大半は廃業しました。

 マジシャンはホテルのフロアショウに移ったり、イベントの仕事に移ったりして行きました。この先20年30年は安泰だと思っていたキャバレーが、ある日影も形も亡くなったのです。キャバレーには独特の文化がありました。今思うとキャバレーはキャバレーでしか見ることのなかった芸がたくさんありました。

 体中に金粉を塗って、怪しげな踊りを踊る「金粉ショー」とか、男女がアクロバチックなダンスをする「アダジオ」、「セミヌードショウ」も随分一緒に仕事をしました。ハツカネズミをたくさん持ってきて、長い樋の中を走らせて、実況をしながら一位を決める「チュウ-レース」。お客様にはネズミの券を買ってもらい、当たると記念品などを渡していました。お客様の似顔絵を描く「似顔絵漫談」、インド人の格好をして笛を吹くと、偽物の蛇が出てくる「東京コミックショー」などは、キャバレーでは大スターでした。キャバレーがなくなるとそうした人たちも見ることはなくなりました。

 何より、生演奏をしていたジャズバンドがキャバレーがなくなることでそっくり廃業してしまい、ミュージシャンは随分生活に困ったようです。

 私は幸運にも、数年前にキャバレーに見切りをつけてイベントに乗り換えたお陰でその後の仕事は順調でした。時はちょうどバブルに差し掛かったところで、依頼される仕事の内容も、大きな話が次々に来ました。「とんでもない時代になったなぁ」、と思いました。付き合う仕事先もしっかりしたところが多く、安定して活動ができました。

 ところが、その仕事の絶頂期の昭和63年に昭和の天皇陛下が倒れられて、8月から翌年1月前半までの半年間、全くイベントが来なくなってしまいました。

 祝い事の自粛です。戦前までは「歌舞音曲停止(かぶおんぎょくちょうじ)」と言い、時の天皇陛下が倒れられたり亡くなったりすると、警察官などが街に触れて回って、芝居小屋や寄席などは数日間営業を停止したそうです。

 まさか昭和63年に歌舞音曲停止が起こるとは思ってもいませんでした。しかも強制ではなく自粛です。その自粛が何か月続くかもわかりません。これには正直頭を抱えてしまいました。でもどうにもなりません。何とか耐えるしかありません。

 この時、私は「あぁ、今私は天に試されているんだなぁ」、と思いました。「お前は本当にマジックが好きなのか」、「一生マジックをやり遂げる覚悟があるのか」、「その覚悟があるなら、今の活動休止に耐えられるか」。と職業としてのマジック活動を問われているんだと思いました。

 昭和63年から翌(あく)る平成元年一月半ばまで、貴重な年末正月のパーティーがすっかり飛んでしまいました。あてにしていた収入がなくなり苦しい日々でしたが、天皇陛下が亡くなったあとには、堰を切ったように山ほどパーティーの依頼が来ました。「耐えたお陰で何とかなった」。と一安心でした。今考えると、昭和の自粛の半年間などは、コロナから思えばかわいいものでした。

 平成になってもバブルはまだまだ続き、イベント会社も、仕事先の企業も業績が好調で浮かれていました。ある会社の忘年会では、社員一同がじゃんけん大会をして、一等の商品がイギリス製の自動車ミニクーパーがもらえました。本物の自動車が宴会場に飾られていました。二等はグァムの旅行券でした。あのころはみんなが笑顔で楽しそうでした。

 

 それから5年後、バブルがはじけて、またまた仕事が一本も来なくなりました。やむなく事務所周りをして仕事を掘り起こそうと考えましたが、肝心のイベント会社がどんどん倒産してしまい、出かけて行っても会社がありませんでした。

 あるイベント会社は、一時は従業員を40人も50人も使って、赤坂の一等地のビルで活動していたものが、私のチームの出演料が振り込まれず、どうしたのかと訪ねてゆくと、以前伺った所は別の企業になっていました。然し、年賀状などは、届いているようですので、受付嬢にイベント会社を尋ねると、「その会社は今は21階にあります」。と言います。奇妙です、このビルは20階建てなのです。教えてもらったままに20階から非常階段を上って行くと、屋上に出ました、そこに勉強部屋ほどのプレハブの建物がありました。中へ入ると、かつてお世話になった社長がいました。

 社員が50人もいたところの社長を初めて見たときは颯爽としていて、「あぁ、赤坂の大きなビルのワンフロアをそっくり使って会社を経営する人と言うのは押し出しが良くて立派だなぁ」。と思いました。

 然し、バブルがはじけてビルの屋上にあるプレハブの中で会った社長は、同一人物とは思えないほどやつれていました。もし道ですれ違ったなら気付かなかったかもしれません。影が薄く、目は伏し目がちで、体も小さくなっていました。金がない、自信がないは人を変えるのでしょう。

 そして恐らく最盛期は何十億円もの金を動かしていた社長が、私のわずかなギャラの支払いのめどが立たずに、ちまちまと言い訳をするのです。その言い訳は、私が聞いても、「あぁ、これは取れないなぁ」。と気付くような嘘ばかりでした。

 この時私は、帰り道、赤坂の砂場でざるそばを注文して、一箸一箸すすりながらしみじみ思いました。「あぁ、昭和は終わったんだなぁ。いくらこれまでよかったからと言っても、この先、昭和の仕事の仕方を繰り返していては、生きてはいけないんだなぁ」。と諦観しました。

 

 この先、もうイベント会社は頼れないと知りました。そうならどうすべきか、私は、企業や、地方自治体から直接仕事をもらって活動して行くようになりました。然し新たな流れを考えつくまでにはずいぶん紆余曲折がありました。何でもかでも、「これがだめなら、今度はこれ」と言うように簡単には次の仕事には進めません。新たな仕事場を掴むには、今、自分のしているマジックを変えなければならないのです。それが簡単ではないのは誰でもおわかりのことと思います。

続く