手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

球磨川被害

 球磨川被害

 今から40年も前のことになりますが、私は山口県のマリンランドと言う遊園地に40日間出演していたことがあります。その時に、山口県内や福岡県のアマチュアマジシャンが連日大勢、私のショウを見に来てくれました。この施設は、昼と夕方の二回、ショウをするだけで、その後は用事がありません。多くのアマチュアさんは、

 「この地域にマジックを指導してくれる人がいません。ぜひマジックを教えてください」。と言います。そうなら、ショウを終えて、行ける範囲のマジッククラブを手当たり次第指導して回りました。最西端は福岡、最東端は下松(くだまつ)、その間の山口、下関、宇部などあちこち回りました。幸い好評で、また来月、またその先も指導してほしいと指導を求められました。

 然し、マリンランドの仕事が終われば、そうそうは九州、山口には伺えません。どうしたものかと考えて、そこで、これを機会に指導のルートを作って、年に二回、春と秋とに指導旅行を計画しました。鹿児島、川内、都城、熊本、長崎、福岡、北九州、宇部、下松、松山、丸亀、高松、大阪、京都、名古屋と14か所を約20日間かけて車で回って、そのうち二か所の講習料を経費に充てれば、十分収入になることがわかりました。

 当時は、アマチュアの人口が多く、小さな町でも10人以上集まります。福岡、熊本となると30人以上集まります。京都、大阪なら50人集まります。当時のプロマジシャンはキャバレーの仕事が忙しくて、アマチュアの指導に全く興味を示しません。無論私もキャバレーの仕事は多かったのですが、私はどうしても指導をしなければならない理由がありました。

 それは毎年春と秋にリサイタル公演をしていたのです。そのため新作のイリュージョンや、アシスタントの衣装を作らなければならず、劇場の借り賃や宣伝費も含めて、経費が、毎年200万円くらいかかったのです。キャバレーの収入では年収1000万円は取れなかったものですから、何とか、リサイタル経費をほかで捻出しなければなりません。

 その苦肉の策が指導でした。ワンボックスカーに道具を乗せ、一人で運転して、大阪まで行きます。そこからカーフェリーに乗り、鹿児島県の志布志湾に上がります。そこから鹿児島を指導し、鹿児島に泊まり、翌日川内(せんだい)に行き川内に泊まり、翌朝、都城(みやこのじょう)に行って都城に泊まり。翌朝、熊本に行きます。

 ところが40年前はまだ高速道路が出来ていません。都城から熊本が最も遠い移動距離になります。えびのと言う土地まではずっと平地が続きますが、そこから先は目で見てわかるほど土地の高さが違います。この断崖絶壁に人吉ループ橋とか言うぐるぐる渦を巻いた道があり、それを上ると、上った先が人吉盆地です。まさかこんな山の上にこうまで広々とした平地があるとは思えません。先ずはほっとします。ここで昼飯を済ませて、ここから球磨川越えをします。

 

 さて今回の集中豪雨の被災地の球磨川は、私にとってもなじみの深い土地でした。何しろ毎年二回はこの道を通って鹿児島、熊本間を行き来していたのですから。

 人吉を出るとすぐに山道に入ります。道は球磨川に沿って西に向かいますが、常に道の片側には球磨川が見えます。球磨川はまっすぐには進まず、常に大きく蛇行していますから、直線距離で行く三倍くらいは走らなければならないのでしょう。川が蛇行する度に、道は川の右側、左側を走りますが、いずれにしても、道は細く、車二台が行き替えないのです。それでいてこの道は国道です。

 向かいからトラックなどが来ると、どちらかの車が引きさがって、安全地帯まで戻らなければなりません。安全地帯は何百メートルごとかに少し空き地が用意されています。遠くに見えるトラックは、慣れたものですから、安全地帯の位置を把握していて、私が止まったほうがいい場合は、遠くから私にクラクションを鳴らします。また自分が止まったほうがいい場合はトラックが待機して、私を待ってくれます。

 待つのは別に構わないのですが、その安全地帯に車を止めて周囲を見ると、片側は険しい山の崖です。反対側は断崖絶壁で、はるか下に球磨川が流れています。まったく心細い限りで、わずかな道の隙間にポツンと一人でいるのです。やがてトラックが来ると、私の車と、ギリギリ30センチくらいの間隔でトラックがゆっくり通り過ぎて行きます。トラックに少し押されれば私の車はあえなく球磨川に転落します。

 今の私がこうした旅をするかと言えば恐らくしないでしょう。然し、20代の時にはこんなことは何でもなかったのです。

 

 道はどんどん下って行きます。川沿いにところどころに小さな集落がありました。今たびの球磨川の氾濫でそうした地域の家は随分被害を受けたことでしょう。天気のいい日に見ても、あそこで暮らすことは簡単なことではありません。この被害のあとには、無人の集落も増えるでしょう。

 道は下って行くと八代の町に出ます。東シナ海に面して開けている八代は、球磨川から来ると大都会に見えます。山が遮っていない分、開放感があってほっとします。

 然しこの旅はここまでで半分です。八代は熊本県の南端です。ここから北上して、熊本に向かいます。早朝に都城を立って、昼前に人吉、二時くらいに八代、5時半に熊本市です。熊本の街中に入るとウキウキしました。そして指導会場に、そこから2時間みっちり指導をし、そのあと、有志と一緒に食事をしながら焼酎を頂きます。

 そんな生活をしても少しも疲れませんでした。その翌朝は、宇土まで戻り、三角(みすみ)港からフェリーで雲仙に行き、長崎に入りました。どこも遠い旅でしたが、私にすれば「不便だからほかの人はいかないんだ、この仕事は私にしかできない」。と自負していました。冷静に考えたならずいぶんつらい仕事だったと思いますが、その時は少しもつらくはなく、むしろ楽しいっ日々でした。

 その甲斐あって、収入には恵まれ、一回の指導の度にリサイタルが出来て、その度に道具が増えました。その後、東京イリュージョンを起こすときには人も道具も潤沢に出来ていたのです。それもこれも球磨川越えの絶壁でトラックを待ち続けたあの経験が今につながっているのでしょう。球磨川の氾濫を見て40年前を思い出しました。

 今も記憶する、球磨川の美しい景色に生まれ育った皆様が、何人かお亡くなりになったことは真に悲しく、心からご冥福を祈ります。合掌。