カムイコタンの初雪
さて、北海道の仕事をするためには車で道内を回ることが最適だと判断しました。私は学校を出てすぐに中古のブルーバードのワゴン車を買い、どこにでも乗って行きました。この車はボロでしたが、故障もせずよく走りました。然し、北海道を乗り回すのは躊躇していたのですが思い切って車で行ってみることにしました。
カーフェリーで東京を立ち、船中で一泊、翌日昼に苫小牧に付きます。そこから札幌に向かいます。途中、定山渓を超えます。9月の初めでしたので、まだ夏タイヤで大丈夫だろうと考えていましたが甘かったです。
定山渓の峠の登りまでは雪もなかったのですが、下りになったところでいきなり 国道に雪が積もっていました。車は雪に足を取られ、慌ててブレーキを掛けましたが、ここはブレーキを掛けてはいけません。車がスピンして、車は二回転しました。ようやく止まったと思ったら、ガードレールに乗り上げて、車のボンネット部分がガードレールからはみ出していました。
一瞬命が亡くなったかと思いました。周囲を見ると車はガードレールの上に乗り上げて崖で止まっていました。取り合えず車から出ようと思いましたが、自分自身がどういう状況にいるのかわかりません。ドアをそっと開けて下を見ると、運転手の座席位置は道路側にありました。いきなり崖に転落することはないようです。
しばらくこのまま、どうするか考えていました。窓から見える景色は定山渓の崖で、秋の美しい景色です。遠くに札幌の町が見えます。多分あと20キロも行けば市内に着くでしょう。でもどうしていいかわかりません。
するとそこに、劇団の座員を乗せたハイエースが通りかかりました。私は窓を開けて手を振りました。劇団員は降りてきて、「東京から来たんだね。今頃が雪の降り始めだからね、こういう事故はよくあるんだよ」。と言いながら、団員数人が車の先端を担いでくれて、車道に戻してくれました。見ると車は前が大きくつぶれていました。
「ちょっとエンジンをかけてごらん」。と言われ、エンジンをかけると動きます。「大丈夫だ、良かったなぁ」。然し、ブレーキが全く効きません。すると、座長と思しき人が、つぶれたボンネットを開けて、「あぁ、ブレーキのばねが取れている」。と言って、どこをどうしたのか、ばねを取り付けてくれました。
「ばねの頭が壊れてしまって、ばねが外れてしまったんだ、仕方ないからばねを引っ張って、途中で止めてある。ブレーキの効きはきついかもしれないけど、どうせあと一時間で札幌に着くから、そこで修理してもらったらいいよ」。そう言うと、一座の車はすぐに行ってしまいました。名刺ももらうことも出来ず、お礼もそこそこで、申し訳なく思いました。
車はフロントが潰れて、ブレーキのばねは恐ろしくきつくなって、情けない恰好で、とにかく札幌の修理工場に行きました。荷物を持ってタクシーでホテルに行きました。翌日は札幌のキャバレーでしたから車の必要はありません。三日後に小樽に行きました。これは列車で行くしかありません。三日後、小樽から帰ると車の修理が済んでいました。車がスピンしたときは一体この先どうなるのかと思いましたが、それほどのこともなく、不幸中の幸いでした。
さて、車で移動するようになって、フットワークが軽くなり、私は、昼間の空き時間に地元のアマチュアさんに指導をすることにしました。これは東京にいるときに事前に、トリックスと言うマジック用具のメーカーに頼んで、よくマジックの道具を買う顧客のリストを見せて貰い、手紙を出しておきました。すると、何人か、返事が来て、個人指導や、クラブの指導を求めてきたのです。
私の行く先は、札幌、小樽、滝川、旭川、留萌、名寄、帯広、釧路、などです。廻っている間は無収入です。仕事を終えて東京に戻って初めて収入になります。
一か月も回っていると持ってきた小遣いも心細くなってきます。ましてやこの時のようにいきなり初日に車を壊してしまうと、修理代だけでも大きな出費です。そんな時に、個人指導や、クラブ指導などがあるとずいぶん助かります。
留萌には、マジッククラブがあって指導をしました、小さな町でしたが、15人のメンバーがいました。会員は誰からも習うことなく自分たちだけでマジックをしています。こうしたクラブにはありがちですが、ハンカチのフォールスノット(ニセ結び)が出来ません。基礎指導でしたがとても喜んでもらえました。
別の日には川に鮭が遡上すると言うので会員さん見連れて行ってもらいました。川はさほど大きなものではないのですが、びっしり黒い鮭が群れを成して上っていました。網ですくえば軽く捕獲出来ますが、勝手に取ることは許されません。
旭川ではマジックラブで指導をしました。会員は30人くらい。またクラブに所属しているお医者さんが個人指導を希望しましたので、翌日、病院に伺いました。休憩時間に院長室でマジックを指導します。今まで誰もプロが尋ねて来ることはなかったので、全く自己流のマジックす。少し教えると見違えるように上手くなりました。
夜には、仲間のお医者さんとキャバレーに来てショウを見てくれました。翌日はその別のお医者さんの病院に行き、マジック指導をしました。結局連日お医者さんの指導をして、夜にはお店に来てくれました。
名寄では中央病院の院長さんに呼ばれて、やはり院長室でご指導しました。この院長さんはリングのマジックが好きで、私の12本リングを気に入り、毎晩店に見に来てくれました。帯広でも、釧路でもアマチュアさんとお会いして、ご指導をしました。
そうしたマジック愛好家とは、その後、年賀状や、手紙のやり取りをすることになり、半年後にまた、私が北海道に行くときには決まって店に来てくれました。今考えると、当時私よりも20年も30年も年上のアマチュアさんが随分面倒を見てくれました。
当時のマジック愛好家は、お医者さん、政治家、弁護士、など、その町でかなりいい生活をしている人が多かったのです。そうした人たちが、応援してくれて、食事をご馳走してくれたり、病院のパーティーなどに招いてくれて、ショウを依頼されたり、随分親身になって世話をしてくれました。
そこで得た収入は、北海道を回る経費になりましたし、また、毎年海外の世界大会に出かけるときの費用にもなりました。なんせ当時は一ドル280円でしたから、ちょっとアメリカに行っても40万円くらい経費がかかったのです。いくら北海道でいい稼ぎをしていると言っても、海外費用は簡単に作れるお金ではありませんでした。
また当時、春と秋にはリサイタル公演をしていました。そこで新作のマジックを発表しなければならず、道具代、会場費など大きな費用が掛かりました。また衣装も年に一着は作りたい。和服も欲しい。お金はいくらでも必要でした。
それら全てを賄うには、どうしてもアマチュアのお客様と仲良くして、支援してもらわなければなりません。そのため、私はいつも自分の情報を手紙にして、日本中のお客様とやり取りをしていました。それは今も続いています。
私がこうして、文章を書くことをいとわないのも、若いころから手紙を毎日何通も書いていたためなのです。生活習慣なのです。
続く