手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロを育てる 4

プロを育てる 4

 

 高木先生は私の真剣なまなざしを見て、「まずいことを言ったかな」。と言う、動揺が見られました。「いや、藤山さん、プロの中には、十年一日のごとく同じことを繰り返すばかりで、進歩のない人が多いでしょう。だからつい…」。

 「はぁ、そうですか、確かにそういう人もいますよね。でもそんなマジシャンは日本のプロだけですか?。アメリカでもドイツでもフランスでも、同じことをずっと繰り返して、新しいことをしないマジシャンはたくさんいませんか?。だからと言って、アメリカのアマチュアや、指導家が、『だからアメリカのマジシャンは駄目なんだ』、とか、『ドイツのマジシャンは駄目なんだ』、と言いますか?。ドイツ人がドイツのマジシャンを語るときに、底辺のドイツのマジシャンを取り上げて、『だからドイツのマジシャンは駄目だ』。とは言いませんよね。明らかに日本マジシャンを貶めるためにものを言っていませんか?。本当に日本のプロは駄目なマジシャンですか?」。

 明らかに高木氏は言葉に詰まりました。初めて自分が口癖のように言っていたことに根拠がないことを知ったのでしょう。「でも、日本のアマチュアの中にはよく演技を工夫している巧い人がたくさんいますよ」。「はいそう思います。確かにそうしたアマチュアさんもいます。でも先生。そうしたアマチュアを捉えて、日本マジシャンを否定されますか?。それならお尋ねしますが、具体的に、私よりもうまいアマチュアって誰ですか?。二、三人名前を上げてくれますか?」。

 これで氏は明らかに旗色が悪くなり、言葉が乱れだします。「いや、藤山さん、藤山さんは別格だよ。藤山さんは文化庁の芸術祭賞まで取っているし、そんな人はマジック界でもいないんだから、アマチュアとは比べられませんよ」。と、急に私をおだて上げ、すり寄って来ました。

 「プロとアマチュアを見比べて、プロは駄目だと言っていたのは先生ですよ」。内心私は、ここまで私が言わなければこの人は、無責任なプロの中傷をやめないのか。と悲しい思いがしました。

 「先生、私は日本人のマジシャンですよ。先生は今、日本のマジシャンは駄目だと仰いましたよね。それならお尋ねします。私より優れたアマチュアって誰ですか?」。高木氏は言葉に詰まりました。本来ここまで年上の人を追い込んではいけません。

 然し、ここに至るまで、長い間、理不尽な物言いを聞かされて来た私としては、ここで決着を着けなければ、また話は繰り返され、物を知らないアマチュアの親父さんが同じように「日本のマジシャンは云々…」。と言って無責任にプロをくさします。ここは一罰百戒の思いで氏に食らいついて行きました。

 「いや、みんなが駄目なわけではなくて、努力をしない人もいると言う話です」。「だから日本プロは全部だめなのですか?」、「いや、アマチュアも駄目な人は多い」。「指導家はどうです?」。「指導家も駄目な人は多い」。「つまり日本人はみんな駄目な人ですか?」。これで勝負がつきました。

 残念なことに、ここに氏の本質があります。要するにお山の大将なのです。自分以外すべての人を駄目な人と言うのです。自己の優越を語るために周囲の人を否定するのです。これは高木氏に限った話ではなく、地方都市で、数人の生徒を持って指導している指導家も、地方都市の狭いテリトリーでセミプロをしているマジシャンも、マジックの世界には世間を知らないで他者否定する人はたくさんいます。

 残念なことですが、マジシャンは、マジックを覚えたことで、広く人との交友を広げて行くべきもののはずが、実は、マジックを知ることで一層狭い人間関係を構築する人が多いのです。

 そうした人の多くは、種仕掛けにしか興味を持たずに、人を認めない人がかなりいます。その人たちに私はいちいち何かを言う気持ちはありません。彼らに褒めてもらいたいとは思いません。ただ理由なくプロを否定することがマジック界を矮小化しているです。

 彼らにとって、プロの存在は、自分の立場を脅かす外敵なのです。単純にプロ否定をすることで、自身の力を誇示しているのです。それが一生そうしていられるなら幸せなのですが、昭和から平成に代わると、マジック界の状況も大きく変化を始めます。

 プロマジシャンの中から、海外に出て活躍するマジシャンが増えて来ます。ミスターサコー、深井洋正、ナポレオンズ、みんな私と近い年齢の仲間です。少し遅れてマーカテンドーも出て来ます。そして、ようやくミスターマリックがテレビに出て、超魔術で話題を集め始めます。

 プロマジシャンが、寄席演芸の世界を超えて大活躍を始めます。そんな中にあって、「だから日本プロは」などと言っているアマチュアや指導家はどんどん影が薄くなってゆきます。

 今思えば、あの時、高木氏はもっと真剣に、時代を読み取るべきだったと思います。アマチュアが育って行くことも大切ですが、率先してアマチュアのリーダーたちは、プロを評価して行かなければいけなかったのです。マジック界がプロを底支えしなければ、マジック界は大きく発展しないのです。アメリカでも欧州でも、マジック界はそうして成り立っているのです。

 

 高木先生も晩年は気の毒でした。かつてはマジックの大会などがあると常に高木先生の周囲にはたくさんの人が集まり、氏は得意になってアマチュアにマジックを見せていました。然し、平成に入ると氏の周りに人が集まらなくなりました。ようやく育ってきた、クロースアップの若手、ヒロサカイや、前田知洋も、高木氏の周りに寄って行きませんでした。氏は明らかに時代から取り残されて行きました。

 但し、私とはその後もご縁が続き、一緒に食事をする機会もありましたし、私のリサイタルにはよく来てくれました。病気の進行もあってか、100㎏を超す体重がみるみる痩せて小さくなり、国会図書館も退職されて、平成3年1月に亡くなりました。

 氏の功績は大きく、特筆すべきことは数々あります。然し、晩年、氏は、時代の読み違えをしたのです。氏が本当に指導しなければならなかった人は、日本のプロ、セミプロの中から有能なマジシャンを選抜して、数人を集めて集中レッスンをすべきだったのです。そうし人を育てなければ、氏の持っている財産は継承されなかったのです。

 なにがしかの謝礼をもらって地方のアマチュアに指導することは、氏の立場の人がする活動ではなかったはずです。平成になって、高木氏を通さずとも、多方面から海外の情報が入るようになると、呆気なく周囲の人が離れて行きました。社会的な存在価値が終わったときに、社会はこうもあっさりと人を捨てるものかと、高木氏の孤立を見て無常を感じざるを得ませんでした。

続く