手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロを育てる 2

プロを育てる 2

 

 マジックの世界はどんどんアマチュア化し、コンベンションはアマチュアの遊び場になって来ています。無論アマチュアが増えることは結構ですし、誰もがプロを目指す必要はありません。然し、プロの存在は、マジック界のシンボルであり、方向を示す存在としてとても重要なものです。

 アマチュアの中には、「今世紀はアマチュアの時代だ」と言う人がいますが、それは大きな間違いです。アマチュアはどこまで行ってもアマチュアです。アマチュアがリーダーシップを取る社会は、即ちアマチュア社会であって、外のプロの人達が見たなら、交流する意味のない社会なのです。

 アマチュアの中で上手だ、すごい人だと持てはやされる人の演技を見ることが度々ありますが、正直、なぜこうした人の演技をアマチュアは褒めるのか首をかしげてしまいます。

 演技の一つ一つが隙間だらけで、手順は一貫していなくて、喋りは余計な話ばかりして、しかも、自分の世界に閉じこもっていて、少しも前にいるお客様の気持ちに添うていません。お客様の心の内を図るゆとりなどないのです。こうした人が、如何に不思議なマジックを見せたとしてもそれは感動には結び付きません。人が見えない名人と言うのは存在しないのです。

 こうした人をうまいうまいと持てはやすアマチュアと言うのは、マジックを種仕掛けでしか見ていないのです。

 

 かつて高木重朗先生(故人)が日本中のアマチュアマジッククラブで指導をしていて、毎年たくさんの本を出し、昭和20年代の後半から、50年代初頭までは大変な権威を持っていました。氏は日本奇術連盟(マジック用具販売、アマチュアマジックの団体、全国に支部を持ち機関誌を発行していた組織)の副会長で。職業は国会図書館の主査。

 典型的なアマチュアマジシャンでした。その知識量は半端なものではなく、毎年海外に出かけてはたくさんの書籍を買い求め、多くの海外マジシャンと交流をし、若いマジシャンでも金を支払って、レッスンを受けていました。私は随分多くのことを高木氏から習いました。

 ところが、氏の人気は独り歩きをして、大きな存在になり、氏自身の口からも「日本のマジシャンは駄目だ」、と言う発言が度々出ました。それはある意味、「自分はこんなに努力をして、マジックを研究している。それに匹敵するマジシャンが日本に存在しない」。と言う意味なのだと思いました。

 確かに研究家である氏はその分野で優れた成果を見せています。然し、海外のマジックの種仕掛けを知っていることと、プロの技量とはまったく別ものです。それを一緒に論じることはできないのですが、氏は度々人前でプロを否定しました。

 すると、高木氏の言葉を聞いた、地方のアマチュアのリーダーたちが、同様にプロ批判をします。彼らは高木氏の様にマジックを研究をするわけでもなく、優れたマジシャンから指導を受けて新しいマジックを習得するわけでもないのに、プロを舐めた発言をします。昭和40年代50年代のアマチュアの社会は屈折した、プロ軽視の時代だったように思います。

 その高木氏ですが、多くの知識を習得して、新しいマジックを指導をしていましたが、その演技となると、今となっては疑問の数々でした。氏の演技の特徴は、ゆっくり、丁寧に演じるスタイルで、癖のない、保守本道の演技でした。

 然し、それが完成された巧さか、と言うと巧さとはかけ離れたものでした。演技中たびたび種が見えましたし、手の遅さのために、種仕掛けが追えてしまうのです。氏が、「これはスライディーニが演じる紙玉です」。と言って、紙玉がテーブルの紙箱に一つ一つ移る演技を見せると、それは、マジック解説をしているかのように、種が分かってしまうのです。単純な動作の繰り返しですが、スライディーニが演じると、実に不思議に見せたのですが、師の紙玉は不思議には見えませんでした。

 恐らくスライディーニが持っていたあくの強さが、実はいいミスディレクションになっていたのでしょう。逆にあくのない氏が演じると不思議に見えないのでした。芸能と言うものは、必ずその人の生きて来たすべてが表に出て来ます。それは人間的な素晴らしさだけでなく、性格の悪さ、育ちの悪さまでもが表に出ます、そして、負の面が必ずしも悪い方向に進むわけではなく、いいも悪いも全てひっくるめて一つの花を咲かせるのが芸能なのです。

 高木氏の演技を見ていると、正確に習ってはいるけれども、あくが取れてしまい、見た目はすっきりしていますが、レシピは同じでも、まるで温度の醒めたラーメンを食べさせられているような、巧さとはかけ離れた演技になっていました。

 しかも、師の演技は常に自家撞着していて、自身から離れて演技をすることができませんでした。これは多くのアマチュアが持つ決定的な欠点です。アマチュアは自分を引き摺り続けます。氏は、演技が失敗したりすると、決まって言い訳を話し始めました。それを見ていて私は、「そんなことを言ってないで、早く次のマジックをしたらいいのに」。と思いますが、自分の失敗を隠そうと、なぜうまく行かなかったかを延々言い訳します。時には、演技をしながら、種明かしを始めたりします。

 「いやっ、お客様の中には少なからず素人さんもいるのに、なぜ突然種明かしをするのか」。全く理解できない行動をとるのです。「失敗した自分が名誉挽回を図るには、指導家としての自分を見せるしかない」。と思ったのか、急に種明かしが始まります。信じられない行動です。

 つまり高木氏の根底にあるのは、坊ちゃんなのです。坊ちゃんが好きでマジックをしているのです。「みんな見て、僕上手でしょう」。と言ってマジックをしているのです。実際氏の演技はアマチュアとしては上手でした。然し、いかに優れた演技でも、人前で見せるには程遠い演技だったと思います。

 私がここで何が言いたいのかと言うなら、いくら多くの知識を持っていても、見せるための修業をせずに、プロ意識を持とうとしない人(自分を律して、人に夢を提供することに人生を捧げない人)の演技はどれもこんなものなのです。

 他のジャンルのプロフェッショナルの芸術家や、スポーツマンに「この人が日本一のマジシャンです」。と言って、アマチュアマジシャンを紹介したりすれば、恐らく他ジャンルのプロたちは、そのアマチュアマジシャンを見て「マジックの世界ってこれがプロ?、一体どこがプロ?」。と怪訝な思いをするでしょう。プロとしての修行をしていない、全くの素人は評価のしようがないのです。

 では何がプロの修行なのかは明日またお話ししましょう。

続く