手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロを育てる 3

プロを育てる 3

 

 実際、プロからマジックを習うときに、何をするのかと言うと、先ず挨拶の仕方から教え込まれます。それも、お客様が立っている席での挨拶の仕方から、座っている座敷での挨拶の仕方などを覚えます。

 基本的に日本の礼儀は、相手と目の高さを合わせるのが原則です。例えば、座敷に入るときは、一度廊下に座って、「失礼します」と声を掛けて、座ったままの状態で襖(ふすま)を開けます。こうすると、襖を開けた瞬間にお客様との目の高さが合いますので、相手に失礼にはならないのです。そして座った状態でにじり寄って部屋に入ります。

 帰る時も同様にして、部屋から出ます。これが日本のマナーです。プロになると言うことは、マジックを習うことではなく、先ず人と接するマナーから学びます。つまり、マジックをする以前に学ばなければならないことは山ほどあります。それらのルールをすっ飛ばして、マジックだけしても、次から仕事に呼ばれることはありません。

 多くのアマチュアは、マジックが出来ればマジシャンだと思っていますが、礼儀のないマジシャンはマジシャンとは呼ばれません。仕事も来ないのです。お客様といかに接するかと言う、マナーこそ基本なのです。それを学ばなければ、プロではないのです。

 

 私が中学生で師匠に習いに行っていた時に、真夏に部屋を閉め切って、うだるような暑さの中でリングの稽古をした話は何年か前のブログに書きました。その時、師匠は和服を着ていて、私は中学生になりたてで、学校帰りでしたので、黒ズボンに、長袖のワイシャツを着ていました。習っているマジックは6本リングでした。

 この時、ワイシャツの首のボタンを外すことは許されませんでした。なぜなら舞台に立ったなら、どんなに暑くても蝶ネクタイをしなければならないからです。然し。昭和40年当時、家庭にクーラーはなく、部屋は締め切っていてうだるような暑さでした。

 その中で首のボタンをして、リングをすると、汗は滝のように流れ、手を降ろすとぼたぼたと手首から汗が落ちて来ます。この時、私はハンカチを出し、顔を拭きました。すると師匠は烈火の如く怒りました。怒るのは当然で、師匠は着物をきっちり着こなして、正座をして見ています。それに対して、私はワイシャツ姿で稽古をしてたのです。暑いことは師匠の方が暑いのです。

 すると師匠は、私を前に座らせて、長い説教を始めました。「自分がマジックを教えることは収入のためにしていることではない。次の奇術師を育てるためにしていることだ。これは公(おおやけ)の気持ちでしている。然し、稽古中に汗が出ることは、私事(わたくしごと)で、自分の都合だ、舞台に立ったなら、自分の都合を優先させてはいけない。お客様に奉仕することだけを考えなければいけない。お前のしていることは自分の都合を優先している。そんなものにマジックを教えることはできない」。

 こんな風に理論立ててて話をしてくれればよくわかるのですが、残念ながら、昔の人は、小学校までしか出ていませんので、語彙が少なく、話は右に左にうろうろして要領を得ません。そのため説教は一時間に及びました。子供にとって正座の一時間は何より苦しいことです。お終いには師匠自身も何を言っているのかわからなくなり、いつしか以前私がした失敗を言い出します。これほど長くつらいことはありませんでした。

つまり、私は話の内容が分からないまま、説教のつらさから、舞台でハンカチを使ってはいけないと言うことを嫌と言うほど学んだのです。

 これが昭和のマジックの習い方でした。うるさい師匠でしたが、でもこの人おかげで楽屋のマナーなどを学びました。中学生にここまで入れ込んでマジックや礼儀を教えてくれる師匠がいたことを今でも感謝しています。

 私の師匠は、松旭斎清子と言い、およそ、実力も人気も備えた大幹部ではありませんでした。今となってはこの人の名前がマジックの関係者から出ることもありません。そんな人ですら、きっちり弟子に礼儀を教えていたのです。

 

私が修行をしているときに、全くマジックのことを知らないアマチュアが、「日本の奇術師なんて駄目だ、大したやつはいない」。などと悪口を言う人があります。何の資格があってプロマジシャンをなじるのかはわかりません。

 確実に言えることは、昭和のアマチュアは、簡単にマジックの道具が手に入るようになり、マジック界を舐めてしまったのです。金さえ出せば種が手に入るようになって、アマチュアでも、稼ぎのいいアマチュアの方がいい道具を持っています。それを自慢して、「日本のプロは駄目だ」と言い出す人があちこちにいたのです。

 不幸なことですが、高木重朗先生は、そうしたアマチュアの筆頭の人でした。慶応大学を出て、国会図書館に勤め、膨大なマジックの知識を持ち、優れた人格を備えているはずの氏ならば、アマチュアの尊大な態度をたしなめる立場の人であるべきものを、実は率先して、「日本のマジシャンは駄目だ」。と言っていたのです。

 中学生のころから修行をしていた私に取って、いわれなきプロ軽視ほどつらいものはありません。何の努力もしていないアマチュアが、マジックの道具を金で買って、それで自分がマジック界の一員になった気持ちでいて、日本のプロがどうこうと、とかくの話をするのは、この先プロの道で生きようとする者にとって、これほど邪魔な存在はないのです。不幸なことですが、日本で生きると言うことは、言われなく人からくさされます。それがどれほど社会の発展を阻害しているかわかりません。

 こどもの私には社会を変える力がありません。でも、私はいつかそれを見返してやろうと考えていました。昭和63年、私は文化庁の芸術祭賞を受賞しました。この時私は33歳。当時最年少の受賞です。その受賞からほどなくして、高木先生と会う機会があり、多くのアマチュアのいる場所で、高木先生が例の如く、「だから日本マジシャンは駄目なんだ」。と言っていました。

 私はようやく、私の出番が来たと思いました。「先生、今、日本のマジシャンが駄目だと仰いましたが、具体的に日本のマジシャンの何が駄目なんですか」と、静かに質問しました。すると快活に話をしていた高木先生が、急に真顔になり、慌てだしました。

 この話の結末はまた明日お話ししましょう。

続く