手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 3

 今日はとっても苦しい選択をしました。18日の玉ひでは 中止することにしました。また、12日のマジックのお稽古も中止します。少人数でのお稽古希望であれば、お受けします。これで私の今月の仕事はすべてなくなりました。私自身はやりたかったのです。しかし、弟子の前田君が、「ウイルスに罹ったらどうしますか」。「いや、若い連中はかからないよ」。と言うと「いや、師匠ですよ。師匠は糖尿病だし年ですから、一番かかりやすいじゃないですか」。なんと、私を心配して中止をもとめていたとは、言われればその通りです。やむを得ません。今月だけはおとなしくしていましょう。

 こんなことはいまだかつてなかったことです。まったく舞台に立つことのない月なんて考えられません。指導もなくなるなんてありえないことです。でも長い人生にはそんなこともあるのでしょう。

 昨日は弟子と舞台の稽古をしました。仕事がないからと言って何もしないわけにはいきません。仕事が来た時に慌てないように、稽古だけはしておかないといけません。道具を直しているうちに、新たにアイディアが浮かびました。これは大きな拾い物です。どんなことでも、活動しているということは新たな発見をします。そうした発見をさせてもらったわけですから、コロナの休みも役に立ったわけです。

 玉秀は5月にはスタートします。また、神田明神も5月に始めます。猿ヶ京の合宿も、6月には企画します。どうぞ皆様ご参加ください。 

 

第二次オイルショック

 第二次オイルショックは昭和54(1979)年に起こりました。実感としては昭和55(1980)年くらいから世界中が不況になりました。イランの革命が原因で、石油輸送が困難になり、油不足から値上げがされて、第一次オイルショックと同じ状況になります。ヨーロッパやアメリカの自動車会社が大赤字になり、倒産が続出します。

 このころには、日本のマジシャンもたくさん海外に出るようになりましたし、同時に海外からたくさんのマジシャンが来日するようになります。そうなると自然と日本のマジシャンも、自分たちのマジックと海外のマジシャンのマジックを比較して考えるようになります。私は、ちょうどこのころから海外に出かけて、あわよくば海外で生活したいなどと甘い考えでいたのですが、現実に海外のショウビジネスの状況を見ると、よほど日本よりも生活が厳しいため、外国で暮らすことを諦めます。

 当時私の仕事は7割くらいキャバレーの収入でしたが、正直、キャバレーには限界を感じていました。収入的には問題はないのですが、私はいつまでも一人で小さなマジックをしていないで、男女のアシスタントを使ってもう少し大きなショウがしたいと考えていました。しかし実際、キャバレーは、マジシャンに対して何の期待もしてはいなかったのです。大きなショウなどどうでもよかったのです。

 大きなショウどころか、ショウそのものに理解がなかったのです。キャバレーは、お客様からショウチャージが取れればそれでよく、ショウの内容など細かく見ていないのです。私が「これだけのことをするからこれ位のギャラを下さい」。と言っても、「そんなことをしなくていい。いつもの鳩と、リングをしてくれればいい」。と言われます。今も昔も日本のショウビジネスの状況は変わりません。アメリカを見て、日本を見ると、日本にいると大きく活動することの限界がすぐに見えてしまいます。相手が出した条件の中で小さく生きるしかないのです。

 当時、アメリカでもヨーロッパでもどんどんナイトクラブが消えて行っていました。知人のフランスのマジシャンが、生活して行けない、とぼやいていました。パリや、ロサンゼルスにいて、生活が難しいというなら、きっと近いうちに日本でも同じことが起こると思いました。

 それでも日本はそれまでが好景気でしたから、さほどには不況は感じられなかったのですが、第二次オイルショックは大きな転換になりました。不況が去ると企業は無駄な接待費を使わなくなりました。そのため、全国に3万軒もあったキャバレーが次々に消えて行き、昭和58年ころにはほぼすべてなくなってしまいました。

 私は、今のままキャバレーにしがみついていてはだめだと気づいていましたが、ではどうやって生きて行っていいのかがわかりません。わからないまま大道具を制作し、男女のアシスタントの衣装を作って、大きなショウに乗り出そうと考えていました。

 昭和56年ころから、時折り広告代理店と称する、硬いサラリーマンのいる会社がイベントの依頼をしてくるようになりました。彼らの求めているショウは、私がやりたいと思っていた、スライハンドから、トーク、イリュージョンまで、すべてのマジックをこなして40分から1時間のショウをする、イベントのメインショウでした。私とすればこうした仕事を前々からやりたかったのです。

 然し、そうは言っても当時、イベントだけを仕事として生きていけるとは考えられなかったのです。日本中のイベントの数は限られていて、イベントだけを相手にしていてはとても生きてはいけない、やはりキャバレーなり、寄席なりを仕事のベースとして、時々来るイベントでいい稼ぎを手に入れる。そんな方法しかないと考えていたのです。

 やがて来るであろうイベント活動のために、私はリサイタル公演を頻繁に行って、トークやらイリュージョンの作品を作り溜めていました。そうする間も、キャバレーはどんどんなくなって行きました。これまで15分の手順を2本持っているだけで生きてきたマジシャンはキャバレーが消えるとともに廃業し、タクシーの運転手やら、他の仕事に変わって行きました。何十人ものマジシャンが時代の即応できずに廃業しました。

続く