手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 9

 昨日は、人形町玉ひでの舞台で公演をしました。早くもこの公演を楽しみにしているお客様が増えて来て、8月22日(土)も申込者が何人かおります。なかなか日常生活をしていて、お座敷に上がる機会と言うのは限られていますし、玉ひでの親子丼は通常、2時間待ちの行列を覚悟して並ばなければ食べられませんので、(玉ひでさんは、軍鶏鍋屋さんですから、鍋を注文してくださるお客様は予約ができますが、親子丼のお客様は予約ができません)。私のショウを見ると言うことで予約できると言うのは、親子丼を並ばずに食べられるわけで、ある意味抜け道と言えます。

 昨日は、弟子の前田と、日向大祐さん、ザッキーさんが出演し、そのあと私が50分、手妻を演じました。こうして毎月お客様の前で演技をしていれば、みんなだんだんと巧くなって行ききます。舞台はやり慣れることが大切です。もっともっとこの場に出てみたいと言う人が増えたならいいと思います。もっと出演者を増やして、2日間3日間できたなら、マジシャンは生の舞台と収入を得ることになり、力がついて来るでしょう。

 私は、5年のうちに、座敷や、ホテル、劇場で、30か所くらい、出演場所を作って行こうと考えています。意欲のあるマジシャンを10組くらい集めて、手分けして廻れば、少なくともマジシャンは年間20ステージくらいは一緒にツアーを作って回ることが出来ます。今すぐにそれを達成することは難しいですが、少しずつ、出演場所を広げて行けば、数年のうちに目的は達成できるでしょう。

 仕事がないと言って嘆いていてはいけません。理解者を探して、出演場所を作ることです。初めは20人30人のお客様でもいいのです。その舞台で、決して手抜きをせず、いい演技を続けていれば、きっとお客様は良い支援者となってくれるでしょう。

 

一蝶斎の風景 9

 一羽蝶から二羽蝶、そして千羽蝶と進んで行くにしたがって、花吹雪の口上を言い換えることで、蝶として表現できるものかどうか。おそらくここは一蝶斎もずいぶん悩んだのではないかと思います。

 私自身、30代に蝶の口上を取り去って、演技することを考えた時に、悩んだのは、二羽蝶と千羽蝶のサイズの違いでした。昔の式の口上は、「雄蝶雌蝶小手にもみ込みますれば、子孫繁栄、千羽蝶と変わる」。と言えば、とにかくは子孫が増えて行ったことはお客様に伝わります。然し、口上を取ってしまったら、どう整合性を持たせるのか、これは随分悩みました。

 私が蝶を覚えたのは20歳の時です。然し、自身のリサイタルなどで時折り演じる以外、めったに蝶を出すことはなかったのです。千羽蝶が納得できないがために、私は長いこと蝶を演じなかったのです。無論その間にも、人を訪ね歩いて、口伝を聞き集め、何かヒントはないかと調べました。

 一つは私の師匠(松旭斎清子)が話してくれた話、「親の蝶は、子供の蝶を見ることはできない。親の犠牲があって子供が生まれるのだから。蝶は子供の成長を見ることなく死んで行き、一年の後に子供は飛び立ってゆく。従って、子供の生は親の死であり、これはめでたい事でもなければ、悲しむことでもない、普通のことなのだ」。という話。これは無常観を表しています。これを実際に演じるために、口伝がいくつか残されていました。これは私が蝶の口上を取り去るために大変役に立ちました。

 吹雪を散らす際にも、吹雪を雪と見立てるか、花吹雪と見立てるか、蝶と見立てるかによって、吹雪の飛ばし方が違います。その飛ばし方は勿論口伝です。千羽蝶だと言って、ただ吹雪を撒いても蝶には見えません。そこには数百年の隠された秘密があるのです。残念ながら、多くの蝶を飛ばす手妻師はこの違いを知りません。

 私は習いに来る人には吹雪の飛ばし方を話しています。こうしたことを継承するから古典芸能なのであって、ただ吹雪を飛ばしていたのでは、単なるマジックです。びっくり箱のふたを開けて、人を驚かせているのと同じことです。ちゃんと学べばいいのになぁ、と思います。

 あれこれ工夫しているうちに、30代の末に、一蝶斎は、たぶんこうしたのだろうと言う答えが見つかりました。私はそれを今も忠実に演じています。

 不思議なもので、私が納得のゆく蝶を演じるようになると、にわかに私のお客様は蝶を見たがるようになりました。折から、バブルがはじけて、イリュージョンの仕事がなくなった頃です。そこで、徐々に仕事を、イリュージョンから、手妻に移して行きました。結果から考えたなら、うまく人生を乗り切ったことになります。

 

 私の活動はともかく、一蝶斎は「蝶の一曲」によって順風な人生を歩みます。弘化4年の豊後大掾の襲名披露は60の還暦を記念して興行したわけです。60と言う年齢は、当時としては相当な老人です。然し、一蝶斎は、体も、頭脳も健康だったようで、その後も精力的に仕事をしています。初めに書いた、信夫恕軒は、親が医者で、当人は漢文学書をし、その後新聞記者をし、晩年はほとんど働かずに、芝居や寄席を見ていたようです。その恕軒が一蝶斎の演技を漢詩にして書いています。それがいつの時代の一蝶斎なのかはわかりませんが、天保13年、信夫恕軒6歳の時か、弘化四年の豊後大掾の襲名の舞台か、はたまた晩年の舞台かは分かりませんが、かなり詳しく書いています。但し、恕軒は、大道具の芸はあまり好きではなかったようで、手わざのものばかり書いています。無論最大のお気に入りは蝶です。以下一蝶斎の演技を書いてゆきましょう。

 「満干の徳利」盥の水を徳利に移し、それを拳の中に入れて行く。拳に全ての

  水が入り、水は消えている。

 「銭の抜き取り」紐に銭数枚を通し、二人の観客に紐の両端を持ってもらい、半紙

  一枚を銭の上に載せ、銭だけ抜き取る。

 「紙片から花火」半紙を細かく裂き、火をつけると、花火に変わる。

 「紙片から蜘蛛の糸」更に紙片を丸め、空中に投げると蜘蛛の糸に変わる。

 「紙卵」蜘蛛の糸の切れ端を丸め、弾いているとだんだん膨らんできて、息を吹き

  かけると、卵に変わる。

 「延べ紙から傘」半紙を丸めて火にくべると、花火になり、火を消すと、5~6m

  もの延べ紙の帯に変わる。延べ紙をまとめると、大きな傘が咲く。

 「蒸籠」(多分、絹の小切れなどを出した後)箱に向かって、「出(い)でよ」と声

  をかけると、箱の中から鳩が3羽飛び立つ。

 「水中発火」テーブルの上に鉢を置き、水を張り、半紙を近づけると、半紙は燃え上

  がる。

 「釣り灯篭」空中に吊ってある灯篭を降ろし、中に蝋燭の明かりが灯っている。灯り

  の点いたまま、灯篭を鉢の中にれる。しばらくして、釣り上げてみると、蝋燭の灯

  りは水に濡れず、灯ったまま水の中から出て来る。

 

 今読んでも、何となくそのマジックがどんなものだったかは推測が付きます。手妻は単発で演じたのではなく、半紙を使って一連の芸につなげています。ルーティンと言う考え方がこのころからできていたようです。当時の恕軒にすればどれも不思議だったのでしょう。さてその恕軒が一蝶斎の蝶をどんなふうに見たのか、それはまた明日。

続く