手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日々のこと 2

日々のこと 2

 

 天保13年正月の柳川一蝶斎の舞台を見て見ましょう。

「満干の徳利」、盥(たらい)に張った水を掬い取り、拳に入れると、拳の水が消える。という現象のようですが、恐らく、拳ではなく、徳利などの容器に入れて、水を消したのだろうと思います。盥の水は常に舞台の下手側にあり、これはあとで水芸に使います。恕軒はマジックをしないため、かなり思い違いをしている所があります。そのため補足が必要です。恐らく、この後、水を使った芸が続きますので、先に満干の徳利だけを演じるのは流れにそぐわないように思います。この演技はもっと後に演じたものと思います。

 

「銭の抜き取り」、観客に舞台に上がってもらい、二本の紐に穴あき銭を何十枚か通し、紐を結び、紐の両端を持っていてもらいます。銭の上に半紙を二つに折って乗せ、半紙の中に手を入れて、銭だけ抜き取ると言うもの。

 今日でも演じられる、ごくごくポピュラーな紐抜けです。但し、銭の上に半紙を二つに折って乗せ、その中に手を入れて抜き取ると言う演出が珍しく、こうした当時の演出が書かれている資料は貴重です。舞台人である一蝶斎が、今日のクロースアップのような演技を舞台上で演じていたと言うのが面白いと思います。

 

「紙片から花火」紐抜けで使った半紙を、細く切り、火にかざすとそこから花火が吹き出します。これはかつて、一徳斎美蝶(大正末期から昭和40年くらいまで活躍した手妻師)が良く演じていました。現代では花火を舞台で使えないため演じ手はいません。

 

「紙片から蜘蛛の糸」さらに、燃え残った半紙を丸めて、空中に投げ上げれば、蜘蛛の糸(撒き=滝)となって、宙に広がります。これは手妻の定番です。

 

「紙卵」さらに半紙の破片をセンスの上でポンポン跳ねていると、紙は膨らんで卵に変化します。卵は都合3つ作られます。紙卵と言われる、古い手妻です。卵そのものが貴重品だった江戸時代は、子供に取っては憧れの食べ物です。

 

「延べ紙から傘」半紙を火にくべると、炎を上げて燃えます。それを扇子の要(かなめ)側で火を消して、宙に投げると、白く長い延べ紙(幅8㎝長さ8mくらいの丈夫な紙の帯)に代わります。もう一度半紙を燃やして火を消して宙に投げると、赤い延べ紙に代わります。延べ紙は、紅白共に三尺(90㎝)ほどの長さにまとめて手に持ち、中から大きな番傘が出現します。先の一徳斎美蝶はここで、傘を出す前に、延べ紙に火をくべて花火が上がって、それから傘を出していました。恐らく、先に書かれた半紙から花火という演技は記憶違いで、一連の延べ紙から花火、そして傘と言う演技だったのでしょう。そうだとするなら、美蝶の演技は、一蝶斎の手順そのものだったわけです。

 美蝶は、ここで、火をつけると、「江戸の名物、両国は花火の景」。などと言って、しょぼい花火を燃やします。余りに花火が小さいため、観客は失笑します。そこで、「それなら大輪の花を咲かせましょう」。と言って、延べ紙の中から大きな番傘を出しました。番傘には墨で大きく一徳斎美蝶と書かれていて、傘を持って座ったまま見得を切りました。

 

 「蒸籠(せいろう)」四角い底なしの箱を改めて、小さな布切れや、人形、毬などを取り出します。お終いに扇子を広げて、箱を仰ぎ、「起きよ」。と号令をかけると、中から鳩が三羽飛び出します。

 この鳩は今日マジシャンが使う白い鳩ではなかったでしょう。山鳩か、お寺の境内にいる土鳩だったのかも知れません。いずれにしても、小さな箱から三羽の鳩は驚きです。確実なことは、スライハンドが確立される前の時代に既に日本では舞台で鳩が使われていたと言うことです。

 

 「水中発火」これは純粋な手妻です。先ほど少し書いた、舞台下手に置いてある盥の水に、半紙を浸すと、炎が上がります。これは水中発火と呼ばれる手妻で、とても不思議なものです。一蝶斎に限らず、よく演じられていたようですが、一蝶斎は、その後この盥の水を使って、吊り灯篭につなげます。

 

「吊り灯篭」盥の上には、事前に、芝居小屋の天井から吊り灯篭が吊ってあります。吊り灯篭とは、銅などで作られた丈夫な灯篭で、俺らの庇などに飾られています。四面障子を張り、中に蝋燭を立てて、明かりを灯します。ここでは恐らく商事はつけていなくて、労総が入っているのでしょう。そして、水中発火で紙が燃えるのと同時に、灯篭が下りて来て、一蝶斎は、灯篭の中の蝋燭に、半紙の炎を移して、蝋燭を灯します。

 その状態のまま、灯篭の紐を降ろし、盥の中に灯篭を沈めます。いくつか数を数えて、灯篭を引き上げると、灯篭の中の蝋燭は濡れたにもかかわらず火が燃えたままになっています。これも手妻の独特のからくりです。面白いアイディアですが、今は演じる人がありません。勿体ないと思います。

 

「水絡繰り(からくり)」盥の水を使って、水絡繰り=水芸を演じたものと思われます。一蝶斎の水芸は、ごくシンプルなもので、氏も手に据えてある盥の中から、水が1mとか1,5m吹きあがるもので、水が他に移動したり、手に持った扇子の先に移動したりはしなかったようです。ごくごくあっさりとした水芸だったと思われます。

 

 ここまで演じて、たぶんどこかで休憩を入れたと思います。蒸籠の後か、あるいは水芸の後、一度一 蝶斎は楽屋に引っ込んで、弟子とか、客演の芸人に出てもらったのではないかと思います。

 その後で衣装を変えて、再登場。着物から袴から蝶の大きな柄が描かれていて、贅沢な衣装で、蝶を演じました。但し、ここではあまり詳しく蝶の演技を書いていません。余りにおなじみなために詳細を端折ったのでしょうか。

 但し、その妙技に関しては褒めちぎっています。一羽の蝶がやがて二羽になり、扇に停まったり頭に停まったりします。やがて二羽の蝶は、千羽の蝶になって飛んで行きます。信夫恕軒は、「これぞ天下の奇技、これに勝る芸はない」。と絶賛しています。恐らく、子供だった天保13年以降も、何度も一蝶斎を見ているのでしょう。そしてつくづく一蝶斎の芸に惚れ込んだのです。

 漢文の教師になった後も、一蝶斎の芸が忘れられず、その芸を漢文にて書き残したのです。それもこれも、6歳で母親に手を引かれて浅草の小屋掛けで見た記憶が一生忘れられず、一蝶斎の手妻を愛し続けたのです。

続く