手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日々のこと 1

日々のこと 1

 

 日々、日記をつける人は多いようです。私も毎日書いています。このブログがまさに日記のようなものですが、ブログは読み手を意識して書いていますが、日記は全く読者を相手にして書いてはいません。それだけ本心がそのまま綴られています。

 私の親父が亡くなった後に、遺品を色々調べているうちに、日記が出て来ました。毎日は書いてありません。気が向くと書いていたようです。「親父のように、ギャンブルをして、夜遅くまで酒を飲んで気ままに生きてきた人でも、時に日記をつけるのだなぁ」。と、改めて人の心の伺い知れないものを覗き見た気持ちがしました。

 書いてあることは大したことではなかったのですが、だんだん高齢化して来て、仕事が来なくなって行くことへの不安。大腸癌になって以降は健康不安。食べたいもの、呑みたいものがだんだん少なくなって行って、欲が薄れて行く寂しさ、息子である私に対する期待、孫のすみれに対する愛情、などなど、誰に語って聞かせるわけでもないことを綴っていました。

 同様に、母親が亡くなった後、遺品から日記が出て来ました。余ったノートをホチキスで束ねて、几帳面に日々のことを綴っていました。親父の看病を続けた苦労。親父が亡くなってからは、ボランティアで、障害を持つ児童を学校に連れて行くのを手伝ったり、痴呆症のお婆さんの留守番を手伝うなどしていました。

 全く自発的に区役所の福祉課を訪ねて、そうしたボランティア活動をしていたわけで、自分自身が動けなくなる80過ぎまでボランティアは続けていました。そうした活動の中で、母親は苦労と言うよりも、日々の中から面白かったことなどを書いています。障害者を通して自らが学んいました。

 およそこうした日記は誰に見せるわけでもなく、ただ日々書き続けたもので、人に見せる当てもなくただ仕舞われています。私が亡くなった後には捨てられてしまうのでしょう。

 

 日記を書く習慣は、欧米では珍しいらしく、欧米人で日記を書く人は、アッパークラスの生活をしている人が多く、一般に生活している人が日記をつけることは珍しいようです。

 日本では古くから日記をつける習慣が根付いていたようです。それは世界的に見て、日本人の識字率が異常に高く、海外からの使節が来た時など、役人である侍が、町人や、百姓に、仕事を箇条書きに紙に書いて渡し、百姓はそれを読んですぐに行動する。と言うのを見て驚いています。

 ロシアのゴロウニンと言うロシア海軍の船長が、蝦夷地で日本の役人に捕まって、幽閉された時も、役人と手下が筆談しているのを見て驚いています。つまり当時のロシアの大多数の一般人は文字を理解できなかったのです。日本では、蝦夷と言う土地で、下働きをしている者まで文字が分かると言うのはロシア人にとっては脅威だったようです。

 日本では、身分の低い武士でも、江戸の参勤交代に出かけた時の道中や、江戸で起こった様々なことを詳細に日記に書いて、残しています。物によっては、後世の研究家がその時代の背景を知る上で随分役に立つものもあります。

 実際、私が手妻を調べる時に、ひょんなことから、塩屋長次郎が大名屋敷に招かれて、馬を呑んだ時の様子などが、接待役の侍の日記から見つかるなどと言うことがあり、断片的にではありますが、江戸初期の実際の手妻の様子が、客観的かつリアルに分かったりします。

 

 それが人気の興行であれば、多くの人が見物しているわけで、その評判記のようなものもたくさんあります。観客が見た感想も複数あれば、その演技はかなり立体的に形が浮かび上がって来ます。

 時代は下りますが、明治時代の詩文の研究家で、新聞記者をし、教師もし、芝居や芸能の評論もしていたと言う、今日で言う文化人、当時の粋人である信夫恕軒(しのぶじょけん)という人がいました。この人が天保時代に、母親に手を引かれて、浅草で柳川一蝶斎の手妻を見たと言う記録があります。

 恕軒が母親に手を引かれてとありますので、6歳から7歳くらいでしょうか、そうなら天保13年か、14年。然し、一蝶斎は13年の春から江戸を離れ西国の興行に出て、その後2年以上も江戸を留守にしますので。一蝶斎と、恕軒との接点は。天保13年正月の浅草興行ではないかと思われます。

 その時、一蝶斎を見た少年が、後年、漢文の講師となって、昔を思い出して一蝶斎の舞台の様子を書いています。但し漢文で書かれているため、今ではほとんど読まれることもなく、歴史の中に埋もれていました。私も、宮崎修太教授から漢文の訳をもらったことでその文章を知りました。

 従って恕軒の文章は、日記ではありませんが、その描写が、7歳のころの感想をそのまま素直に伝えているかのような文章なので、天保13年の観客が何を夢と感じ、何に憧れたのかが手に取るようにわかります。

 

 この時一蝶斎は55歳。当時はもう老人です。然し、一蝶斎は頑強で、見た目も若々しかったようです。但し、頭は髪の毛が全くなく、きれいに坊主頭だったようです。一蝶斎の禿げ頭は当時から有名で、禿げ頭の手妻師と言えば一蝶斎のことでした。

 一蝶斎は、稼ぎのいい手妻師で、かなり立派な着物を着て舞台に現れたようです。背が高く、衣装が立派なので、出て来ただけで押出が良かったようです。演技のお終いは得意芸の「蝶の一曲」です。

 蝶は紙をひねって作った蝶を扇で飛ばす芸ですが、流派によって呼び名が違います。他の流派では、「浮かれの蝶」、或いは「胡蝶の曲」と言います。一蝶斎の師匠である、鈴川春五郎の一門では、これを「蝶の一曲」と呼びました。

 蝶そのものは10分から15分のもの(江戸時代なら20分くらいは演じたかも知れません)が、興行自体は一時間以上に及びます。然し、蝶以外の演目は何を演じていたのかが今となっては良くわかりません。恕軒の記録はそこが詳しく書かれていて大変貴重です。順に見て行きましょう、と、言いたいところですが、今日のところは予定の紙面が一杯です。明日詳しくお話ししましょう。

続く