手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

澤瀉屋(おもだかや)内紛 2

澤瀉屋内紛 2

 

 私は先代の猿之助の芝居を随分見て来ました。面白いし、巧いし、芝居自体にテンポがあって、観客を飽きさせないのです。このころちょうど、私は「手妻」を何とか残したいと、古い本を読み漁ったり、古い手妻師を訪ねて手妻を習ったりしていたさ中でしたので、如何に古典を生かして観客を呼ぶかは、随分勉強させてもらいました。

 但し、三代目が考えた芝居の中には、変ななものもありました。ある時、余りに研修生が増えたために、若手だけで忠臣蔵の通しを演じたりもしました。全段演じたなら15時間くらいかかる芝居を、3時間にまとめて、ダイジェストでやって見せたのでした。猿之助の芝居はスピーディーなのが売りではありましたが、この時ばかりは、内容の薄さと、役者の不慣れさが目立って、「どうもこれではなぁ」。と、不満が残りました。でも、「失敗してもいいんだ、とにかく自分の考えを形にすべきなんだ」。と知り、逆に自分の手妻の活動に勇気をもらいました。

 私は、この三代目猿之助が、62歳で舞台人生を終えるとは思いもしませんでした。突然の半身不随で倒れて入院し、そのまま舞台復帰が出来ず、今に至っています。62歳は、役者としてはまだまだ働き盛りです。とにかく演劇の世界で三代目は賛否両論、敵ばかりの人でしたから、ストレスも溜まったのでしょう。その批判を跳ね返すかのように、人一倍舞台に情熱を注いだ人でしたから、相当に体を酷使していたのでしょう。

 

 話は前後しますが、まだ三代目が現役で大活躍をしていた時に、実子の香川照之が、父親の弟子になりたいと歌舞伎座の楽屋でに来て懇願してきました。この時三代目は顔を合わせることもせずに突っぱねたのです。

 三代目は浜木綿子との離婚以来、幼い香川は浜木綿子側についていました。当然、三代目を否定していたため、父親を人一倍憎んでいました。

 しかし同時に、香川には役者としての血が流れていたのだと思います。それに気が付いた香川は何度か三代目に謝りを入れたようですが、叶いませんでした。

 三代目は浜木綿子と別れて、後に、そもそもの浮気相手の藤間紫と結婚をします。その藤間紫が、香川照之と三代目との関係を取り持って、親子関係の修復をし、更に香川を役者として猿之助一座に入れるように計らったそうです。

 体の衰えた三代目は、矢張り血のつながりを求めたのでしょう。行く行くは香川の息子に猿之助の名前を譲ることを考えます。そして、香川自身は、澤瀉屋が持っている、格のある名前の市川中車(ちゅうしゃ)を襲名させることになりました。

 しかし問題は今、猿之助一門をまとめて行ける看板が必要だったのです。歌舞伎の素養のない香川では猿之助は無理です。そこで、当時亀治郎と言っていた、段四郎(三代目の弟)の息子を四代目猿之助に据えると言う案が出て来ました。この時、亀治郎猿之助に据える条件に、亀治郎が生涯結婚をしないと宣言していたことが大きな理由だったと言われています。

 もし亀次郎が四代目猿之助になって、その後結婚をして、子供が生まれたとなると、香川の息子と跡目争いが生まれ、将来澤瀉屋に内紛が起こります。そうならないためには亀次郎が適役だったのでしょう。

 当時、亀治郎もテレビで人気が出て来ていて、そろそろ段四郎襲名かと考えていた時に、猿之助の襲名になったため、当人もその気になったのでしょう。父親の段四郎は、三代目の影になってずっと兄の猿之助を支えて来ました。父親とすれば息子が猿之助を継ぐことは喜ばしいことだったのでしょう。

 

 と、これで猿之助の後継はめでたくまとまった。と、言いたいところですが、実は、三代目は「自分に子供はいない、だからどんな門弟でも、出来のいい者には大きな役を与える、猿之助の名前も譲ってもいい」。と宣言していたのです。そして三代目の言葉を励みとして、猿之助一門は鉄の結束を持っていたのです。然し、いざ三代目が体を壊して、後継者問題が持ち上がると。三代目も血のつながりを重視し始めたのです。

 それまで献身的に三代目に従っていた座員が、澤瀉屋の跡目問題で動揺が始まります。中でも右近は、大阪の舞踊の家元の家に生まれ、素養を買われて早くから三代目の部屋子になり、背格好まで三代目に似ていて、よく早変わりのダミーの役を務めたりもしていました。誰が見ても猿之助に何かあれば 次は右近と目されていた人です。それが親族の中だけの話し合いで、四代目、五代目と跡継ぎが決められて行ったのですから、右近をはじめとする弟子たちは面白くはありません。

 結果、右近は一門を抜けて、市川宗家に入って右団次を名乗ります。一座の若手筆頭がぬけると、座員も動揺します。つまり、四代目猿之助は、そうした、一座が崩壊しつつある中で必ずしも座員から祝福されたわけでもなく、座長を任されます。

 まるでジグソーパズルの一つのピースのように、余白を埋めるために四代目になり、仮に自分が澤瀉屋としての役目を終えた後は、その地位をそっくり香川照之の息子に譲らねばならない宿命を持って地位を得たのです。

 

 これは、恐らく、四代目猿之助にとっても、香川照之にとっても、ストレスのたまる生活でしょう。四代目は周囲の期待に応えて優れた舞台活動を続けて来ましたが、それでもことごとく三代目と比べられ、辛い思いをしてきたはずです。ストレスも溜まるはずです。

 同様に香川照之です。子供を五代目猿之助にしたい一心で、慣れない歌舞伎に入って、役を勤めていますが、幼い時から仕込まれた芝居ではないため、やる度に散々に悪く言われます。このストレスは人には言えないもののはずです。どこかで思いっきり発散させなければ精神が崩壊してしまいます。

 飲みに行って、ホステスのおっぱいを揉むくらいは昔だったら何ら問題はなかったはずです。それが今ではそれも許されないとなったら、彼の脳は崩壊してしまいます。昔なら、役者やスポーツ選手、政治家のゴシップは治外法権だったのです。ましてやカマキリのしたことなら大目に見るべきです。

 彼らがぎりぎりの遊びをすることを世間は知っていながら目をつむって来ていたのです。もしすべてのことが公になって片端から叩かれていたのなら、伊藤博文はお札の肖像になってはいなかったはずです。「救いのないスケベ親父が」、と言われて葬り去られていたはずです。

 香川照之も、四代目猿之助も、従兄弟であると共に、飛んでもない苦悩を背負っています。世間はそこをひたすら攻め立てますが、彼らは互いに人並み優れた知能を持っています。何が良くて何がいけないことかは知っているのです。馬鹿を承知で馬鹿をして遊んでいるのです。そうした人に何の礼節を求めますか。芸人や役者は遊びの中の人生ではないのですか。

続く