手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎以前 江戸初期の手妻

古の伝内、都右近、塩屋長次郎

 江戸時代は約260年間あります。大変に長い時代の中で、1600年代中期から3人のマジシャンが活躍するようになります。一人は、古の伝内(いにしえのでんない)、品玉(しなだま)と緒小桶(をごけ)を得意芸としました。緒小桶は、三つの筒を改めて、中から人形や、飾り物をこまごま出し、お終いには大きな幕を出して、幕の後ろから牛を一頭出しました。伝内は牛の背中に乗って、舞台を一回りしたと言います。京から江戸に出てきて人気を博します。

 伝内に少し遅れて、都右近と言う手妻師が京からやってきます。ところが、おかしなことに、はじめ古の伝内は都伝内と名乗っていました。そしてあとに来た、都右近も、都伝内と称して江戸にやってきます。都伝内が二人出て来て江戸で芸を競います。なぜこんなことになったかは不明ですが、二人は話し合って、初めの伝内は、古の伝内(いにしえ、古くから名乗っていたと言う意味)。と名乗り、後から来たほうは、都右近と改名します。

 都右近も、伝内に敗けないほどの人気で、四代将軍に招かれ江戸城内で手妻を披露しています。この時は、紙を丸めて卵にする術や、変化獣化魚術をアレンジして、山芋が鰻に変わる術を演じています。そして緒小桶を演じています。

 この時の将軍は、四代家綱で、延宝8(1,680)年、江戸城二の丸で披露しています。但し、家綱はこの時既に体調が悪く、無理を押して見ていたようです。その年に亡くなっていますが、これは決して手妻を見たから亡くなったわけではないでしょう。

 

 三人目の塩屋長次郎は生きた馬を舞台に上げ、観客が見ている目の前で馬を呑んで行く術を見せて一躍名前を挙げました。呑馬と言う術は、長次郎以前にもあったのですが、長次郎の工夫によって世に出て、手妻の代名詞のごとく有名になります。

 初めに挙げた、古の伝内、都右近、塩売り長次郎は、三人とも、恐らく若衆歌舞伎の出身者でしょう。若衆歌舞伎とは女歌舞伎、と野郎歌舞伎(男の演じる歌舞伎、つまり今日の歌舞伎)の間に存在した歌舞伎で、今日の歌舞伎の原型のようなものです。

 日本で公式に劇場を建てる許可が下りたのは、元和元(1615)年、豊臣家が滅亡した年です。徳川家康にすれば、目の上の瘤である豊臣家を滅ぼして、その喜びから大坂、京、江戸の三府でそれぞれ数件の芝居小屋の許可を出します。それまでは、京の河原の仮設舞台で演じていた、阿国歌舞伎などが、芝居小屋に進出して、女をたくさん並べて踊りを披露して、大人気になります。これに負けじと、女郎歌舞伎や、娘歌舞伎など、様々な歌舞伎舞踊が出て来ます。ところが、これがヒートアップして、歌舞伎舞踊を表で見せながら、裏で売春を斡旋するのが日常化します。女郎歌舞伎などは、舞台の上で踊りをしているさなかに、番頭が客席を回って、売春の注文を取るようになります。

 すると女同士で人気を競うようになり、女も負けじと、舞台の上で、着物を脱いでヌードを見せたりするようになります。

 これが目に余るために女歌舞伎は一切禁止になります。困ったのは座主です。やむなく、手妻や曲芸、軽業などいろいろと番組を作って興行しますが、女歌舞伎に匹敵するような人気番組ができません。その中で、大坂中座に座主、塩屋九郎右衛門は若衆歌舞伎の許可を願い出ます。女が歌舞伎をするからいけないので、子供たちが歌舞伎を見せつつ、曲芸や手妻を演じるならいいのではと、許可を申請し、幸い許可が下ります。

 この塩屋九郎右衛門が、呑馬の塩屋長次郎の親方と言われています。九郎右衛門は元々、京都の塩商いの元締めです。子供たちに塩を持たせて日本中を回らせて売っていた塩の元締めで、元締めは、子供がただ塩を背負って売り歩いていても大した売り上げにはなりませんので、子供たちに手妻や曲芸を仕込み、人寄せに芸事を演じて見せて、お客様の機嫌を良くしてから塩を売ることを考えました。

 これは評判がよく、塩屋家は、塩商いをしつつ、曲芸手妻の元締めとなり、たくさんの子供を雇い入れ、芸人を養成するようになります。

 その後、塩商いで作り上げた財産で芝居小屋の株を買い、中座の座主に収まります。

 九郎右衛門は、自分が養っている多くの子飼いの子供たちを使い、手妻と曲芸と舞踊のショウを工夫して、今日のアイドル少年のレビューショウを作ります。これが大ヒットします。今日のアイドルの公演を見ればわかるように、着飾った綺麗綺麗な少年をずらり並べて、踊りや、手妻曲芸を見せたなら、若い娘や、未亡人などが入れあげて、客席は悲鳴を上げて大騒ぎ、楽屋の出入り口は婦女子で溢れ返ります。

 ところがここにも問題が起こります。若衆に人気が出過ぎて、金持ちの奥さまや、寺の坊さんからホストとして色を求めて来るようになり、これもまた陰で売春が日常化します。更にはヒートアップして、アイドルの取り合いとなり、武士同士が刀を抜いて切り合いをするような事態になり。結局女歌舞伎同様、若衆歌舞伎が禁止になります。

その後は野郎歌舞伎となって、売春は収まります。

 ただここでご記憶願いたいことは、寛永7(1630)年から承応元(1652)年までの22年間。若衆歌舞伎として、手妻や曲芸が日本の劇場を席巻して芸能の中心にいた時代があったと言うことです。

 そして、そこに出演していた少年たちは、それまでの旅回りの放下芸と違い、洗練された衣装を着て、レベルの高い手妻を披露して、連日京、大坂の大きな舞台で得意芸を披露していたわけです。

 古の伝内や、都右近、塩屋長次郎はそうした若衆歌舞伎を経験していて、その後手妻師として、それぞれ活躍していったであろうと思われます。その証拠は、長次郎は九郎右衛門の弟子であり、伝内はその着ている衣装が派手で、見るからに若衆歌舞伎の出身者です。都右近に至っては衣装も派手なら、その後は、稼いだ金で芝居小屋を買い取り座主に収まっています。我々は馬を呑む芸を見せる人などは、危険術を演じる、妖しげな人を連想しますが、少なくとも三人に関して言うなら、二枚目のすっきりとした手妻師だったと思います。長二郎の晩年の絵には、薄禿の小太りのおやじが描かれていますが、たぶん若いころはいい男だったのでしょう。

 彼らは。若衆歌舞伎が禁止になると、続々江戸に下り、手妻師、曲芸師となって、江戸で活躍するようになります。

次回は江戸中期から末期の手妻師のお話をいたしましょう。

続く