手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

江戸時代のジャニーズ騒動 2

江戸時代のジャニーズ騒動 2

 

 人が馬を呑むと言うマジックで一世を風靡した塩屋(塩売り)長次郎のことは、ほとんど資料がありません。わずかに残る断片的な記録をつなぎ合わせて、推測をするほかはないのですが、亡くなったのは、元禄時代ではないかと思われます。と言うのも、長次郎の資料が、元禄時代を最後にふっつりと消えています。江戸で長期興行中に亡くなったようです。この頃、かなり高齢だったようで、70歳に近かったと推測します。

 当時は高齢と言っても70歳を超えることは稀です。40を過ぎれば老人で、60まで生きれば幸せの部類です。長寿と言っても、大体今の私の歳(68歳)のころには寿命が尽きています。

 元禄時代は、1688年から1704年まで続きました。仮に、元禄17(1704)年(宝永元年)まで生きたとして、その時、68歳だったとしたら、生まれは寛永13(1636)年になります。

 昨日の話を思い出してください、若衆歌舞伎が始まったのは寛永7(1630)年のことです。長次郎が生まれた寛永13年は若衆歌舞伎が真っ盛りの時です。長次郎が、8歳で塩屋九郎右衛門の放下一座に弟子入りをしたとして、それから曲芸やマジックの修業をして、12歳くらいで大坂中座の若衆歌舞伎に出してもらえたとすれば慶安元(1648)年のことです。

 この頃はアイドルスターもたくさん出て来て、若衆歌舞伎が最も充実していた時でしょう。長次郎も12歳から16歳までは、アイドルマジシャンとして、大坂で活躍をしていたのでしょう。

 そして、若衆歌舞伎が性被害だか、性加害だかで風紀を乱すと言うことで、承応元(1652)年にいきなり禁止になります。長次郎が16歳の時です。

 

 既に売れているタレントから、予備軍まで、たくさんの芝居小屋に所属していた若衆歌舞伎のアイドルたちは、たちまち失業です。この先どう生きて行ったらいいのかみんな途方に暮れたでしょう。

 無論、何割かのタレントは放下の小屋掛け(マジック、曲芸などのバラエティショウの芝居小屋)に出ることで活動を続けたでしょう。

 又何割かは、次の時代の野郎歌舞伎(大人の男性による歌舞伎=現代に続いて行く歌舞伎興行)に入って、役者として生き残ることになります。

 長次郎はその後どうしたのか、資料はありません。恐らく、九郎右衛門の本来の家業である、塩売りを手伝ったのではないかと思います。と言うのも、長次郎は、芸人として名前が売れた後でも、塩売り長次郎と呼ばれています。師匠の塩屋の名前を一門として継いだと言うなら塩屋長次郎と呼ばれるべきですが、あえて一般に塩売りと言われていたのは、実際塩を商っていたからでしょう。

 そこから考えるに、長次郎は若衆歌舞伎の後、二十代、或いは三十くらいまで塩商いをしつつ、近郷近在の祭りや、市に出かけて、放下芸を見せつつ塩商いをしていたのでしょう。

 長次郎は、ずた袋に入った塩を、升で量るときに、一升の塩を、五升にも八升にも量って見せるのが得意だったと言います。無論仕掛けはありますが、目の前の観客を喜ばせるマジックを心得ていたわけです。

 長次郎は見てくれのいい若者ですし、大坂の大きな芝居小屋に出て、踊りも踊れて、曲芸マジックも達者だったとあっては、大道で只で見るには勿体ないくらいの芸人です。随分と稼いだのではないかと思います。

 若衆歌舞伎の経験は、それまでの物売りのサービスで見せる芸とは違い、ある種の洗練された芸能になっていたでしょう。それが後年、舞台で生きて行くときに随分役に立ったと思います。

 とは言うものの。現実の日々は、重い塩を担いで、遠くの村から村へ移動して生きて行かねばならず、雨や雪や寒さに耐えながら生きて行くのは簡単ではなかったでしょう。食うや食わずの生活で、辛酸をなめて、芸を磨いて行ったのだと思います。

 

 長次郎と同時期に活動をしていて、後に名を上げる、都右近(みやこうこん)、古の伝内(いにしえのでんない)なども、京の芝居小屋で若衆歌舞伎として活躍していたようです。それが若衆歌舞伎を追い出され、随分と苦労をしたのちに彼らは江戸に出て、手妻師として名を成します。

 

 記録に長次郎の名前が出るのは、延宝2(1674)年、画家の大岡春卜の記録に、「名高き品玉取りなり」。と書かれています。この頃長次郎31歳くらいです。塩売りをしつつ、道頓堀の小さな芝居小屋に出ていたようです。

 品玉と言うのは、今日ではお椀と玉、西洋で言う、カップ&ボールのマジックを指しますが、この頃はまだお椀と玉の意味ではなく、曲芸のお手玉の技を指して品玉と呼んでいます。従って、長次郎は、三つ、乃至四つの玉を放って取る曲芸を得意としていたことが分かります。

 別の資料には、口に楊枝を加えて、楊枝の上に梯子を立てて見せたとあります。梯子となるとどんなに小さくてもかなりの重さです。どうやったのかはよく分かりません。口に加えた撥や楊枝に物を立てる技は、曲芸の世界では立て物と言います。

 長次郎は、立て物と呑み物が得意だったようで、呑み物とは、長さ一尺(30㎝)ほどの棒を呑んだり、短刀を呑んだりして見せたようです。これらは棒呑み、剣呑みと言い、奈良時代以前の幻術(げんじゅつ、または目くらまし)と呼ばれていた頃からの古いマジックです。今日ではこれらはマジックとは呼ばず、危険術等といって区別しますが、古い時代のマジックはほとんどが危険術で、マジックも、危険術も、曲芸も区別がありません。

 そうした意味で、長次郎の芸は、伝統的な幻術であり、幻術を継承した放下の芸なのです。

 さて、その呑み物を得意とした長次郎が、ある時期から馬を丸々一頭呑むと言う芸を見せるようになります。無論、馬は生きた馬で、実際に舞台の上に馬を引っ張って来て、その馬の顔を少しずつ引き延ばして、餅のように細長くして順に呑み込んで行きます。

 この芸はたちまち大坂で話題になって、多くの観客を集めます。やがて、塩売り長次郎と言えば馬呑み、牛呑み、呑馬術と言われるほどにその名を上げて行きます。さて呑馬とはどのような芸なのか、それはまた明日お話ししましょう。

続く