手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

江戸時代のジャニーズ騒動 1

江戸時代のジャニーズ騒動 1

 

 戦国時代から江戸時代の初めまでの興行(ショウビジネス)は、専門の劇場と言うものはなく、不定期に神社や寺の境内や、空き地で小屋掛けをし、評判が良ければ半月でも一か月でも日延べをして銭を取って諸芸を見せていました。

 出雲の阿国(いずものおくに)による阿国歌舞伎も同様で、場所はしばしば変わり、今日の鴨川の河川敷である三条河原であったり、神社の境内などで興行していたのです。

 それが元和元(1615)年。徳川家康が、豊臣家を滅ぼし、大坂城が落城したときに、「元和偃武(げんなえんぶ)=これでもう戦争は起こらない」。と、宣言して、大坂、京、江戸の三都で常設の小屋掛け興行を認めます。

 大坂では道頓堀界隈に大小の小屋掛けがたくさん出来て、一大興行街になります。初期の興行のヒット作は、阿国歌舞伎を引き継いだ女歌舞伎でした。とにかく美人の若い女を集めて、踊りを踊らせます。この時代はソロの踊りばかりではなく、何十人もの女が輪になって派手な衣装で派手な踊りを繰り広げます。

 つい昨日まで、鎧を着て、敵と戦っていた侍たちにすれば、こんな時代がやって来るとは想像もつかなかったでしょう。とにかく道頓堀の興行街は、どこもかしこも女歌舞伎で大当たりするようになります。

 ところが、女歌舞伎は、裏で好色な観客に呼び掛けて、芝居小屋の近くのしもた家に客を引っ張って来て、人気の歌舞伎女優との売春を斡旋するようになります。今舞台に出ていた人気女優と遊べるなら客は大喜びで、いつしか、歌舞伎踊りは踊りがおろそかになって売春行為に走って行きます。

 そうなると、芸の内容よりも、美人かどうか、色気があるかどうかが重要で、踊りの巧い下手よりも、いっそ、遊女を集めて歌舞伎踊りの一座を作って興行する方が手っ取り早いと考えるようになります。

 こうなると、最早歌舞伎踊りではなく、遊女屋のショウケースになって行きます。遊女自身も、居並ぶ美人のライバルを凌いで人気を集めたいがために、舞台の上で素肌を見せたり、悩ましいポーズをとったり、如何わしい行動を見せます。女歌舞伎は売春行為に変わって行きます。

 時の奉行所は、こうした行き過ぎた興行を見て、女歌舞伎を一切禁止にします。寛永6(1629)年のことです。連日大当たりの興行をしていた京、大坂、江戸の興行界は火が消えたようになりました。興行主は大打撃です。何とか以前の賑わいを復活させなければなりません。道頓堀の興行主は集まって様々な知恵を出し合います。

 ここに、室町時代から興行にかかわって来た、塩屋九郎右衛門という人が現れます。この人は名前の通り、代々塩の元売りをする人でした。昔から、売り子に塩を売らせて、あちこちの市で販売させていました。ただ、塩をそのまま並べていてもそうそう売れるものではありませんので、売り子に放下芸(ほうかげい=曲芸、マジック)を仕込み、口上を教え、大道で曲芸、マジックを見せながら言葉巧みに塩を売らせていたのです。

 それが元和以降、小屋掛けを持つまでに至り、塩売りから離れ、舞台で曲芸やマジックを扱う若者によって興行していたのです。この塩屋九郎右衛門が一計を案じ、若衆による放下芸と歌舞伎踊りを併せて、若い男だけの興行を提案したのです。

 女がいけないなら、きれいな少年が、きれいな衣装を着て、派手なパフォーマンスをしたなら話題になる。と考えたのです。この企画を願い出ると、奉行所は、「男の放下芸ならば」。と翌年、すぐに許可が下りたのです。

 さてそれから、曲芸やマジック、歌舞伎踊りが出来る、いい男の少年が集められます。それまでの女歌舞伎をそっくり男に置き換えて、大きな芝居小屋で興行することになります。曲芸、マジック、踊りとバラエティー豊かな内容で、たちまち興行は大当たりをします。当然、京、江戸でも少年の歌舞伎踊りが流行り出します。これが若衆歌舞伎と呼ばれるようになりました。

 

 これ以降、塩屋九郎右衛門は若衆を集めては曲芸やマジックを仕込んで、日本中の興行師に送り込まなければならず、夜も昼もないくらいに大忙しになったでしょう。なんせ、室町時代以来、これほど大量の放下芸が求められたことはなかったはずです。

 少年達も、大きな芝居小屋に出て、知名度を上げたいと思ったら、踊りか、曲芸か、マジックが出来なければならないと分かり、こぞって塩屋九郎右衛門の門を叩き、オーディションを受けに出かけたのです。

 本来九郎右衛門は塩商いが本業で、塩を売るための曲芸マジックを若い者に仕込んでいたのですが、若衆歌舞伎が流行ってからは全くの芸能プロダクションに変貌していったのです。ちなみに塩屋家はこの先、大坂の中座の座主となり、それ以降明治に至るまで大坂の歌舞伎小屋主として活動します。

 

 さて、若衆歌舞伎は、全国でヒートアップし、若衆歌舞伎に出ている若衆に熱を上げた若い娘のファンが連日芝居小屋に押し掛け、悲鳴にも似た声援を送り、大騒ぎをします。観客は娘だけでなく、僧侶もたくさん集まります。当時僧侶は妻帯が許されず、やむなく少年愛に走る坊さんが多かったのです。又、金持ちの未亡人などが、しばしば若衆を連れ出して、茶屋などに誘い、如何わしい行為をすることも増えて来ました。

 そうなると、客と若衆を取り持つ口利き連中が現れ、いつしか若衆歌舞伎も売春が公然と行われるようになって行ったのです。そのうち、若衆の取り合いで侍同士が斬り合う事件まで起きて、侍の死者が出るに及んで、奉行所も見過ごせなくなり、承応元(1652)年、若衆歌舞伎は禁止になります。

 これによって、またまた興行界は大打撃になります。塩屋九郎右衛門の放下の少年を育成する事業もいきなりとん挫します。

 どうも私は、寛永時代の塩屋九郎右衛門と昭和のジャニー喜多川さんが重なり合って見えて仕方ありません。九郎右衛門さんも、ジャニー喜多川さんも、人を育てつつ、結局色ごとの絡みで躓(つまづ)いて、呆気なく崩壊する。芸能の社会はいつになっても同じことの繰り返しなんだな。妙なところで得心します。

 

 但し、話はこれで終わりではありません。ここで行き場のなくなった若衆の中に、後に「呑馬術(どんばじつ)」で一世を風靡する「塩売り長次郎(塩屋長次郎)」がいました。若衆歌舞伎を放り出された長次郎は、様々な辛酸をなめてやがて歴史に残る手妻師として大活躍をします。その話はまた明日。

続く