手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 16 奇術博士

天一 16 奇術博士

 

 天一一座は大阪を出る前に,マネージャーの三越幸太郎を先に東京に送り、横浜と東京の劇場と交渉をしています。新富座が駄目だと言う話はやむを得ないとしても、東京の名だたる劇場と交渉をしたはずです。その結果、名乗りを上げてきたのは文楽座でした。文楽座は四月にジャグラー操一を半月興行して大当たりでした。

 文楽座の座元の梅本は操一で稼いだ収入で、全館ガス管を配備して夜の芝居ができるようにしました。新富座同様に、昼夜の興行を可能にしたことで、またひと稼ぎしたいと望んでいます。大阪で、操一よりも評判の高い天一が来援するとなれば、文楽座は願ってもないことです。互いの思惑が一致し、三越文楽座と契約をし、11月1日から、二か間の興行を決めました。

 天一の東京初お目見えは文楽座と決定しました。ところが、ここに問題が発生します。所轄の役所が劇場で奇術をすることを認めないのです。奇妙です。ノートンも、操一も何の問題もなく興行しました。天一のみ認められないとはどういうことでしょう。

 役所が言うには「あれはあくまで特例で、特例を何度も繰り返せば特例ではなくなってしまう。奇術は芸能としては寄席で行うべき種類のもので、寄席で興行するなら問題ない」。と言う話でした。寄席と言うのは、100人200人規模の小さな劇場です。床の間のような舞台に、足袋裸足で上がり、小さな奇術をして見せる場所です。役所は奇術をそうした寸法に閉じ込めたいと考えているようです。それにしてもなぜ急にそんな要求が出て来たのでしょうか。

 これは私の推測ですが、これまで奇術は、小屋掛けか、寄席で行っていたものでしたが、ここへきて大劇場に進出してきたことで、他の役者連中から反発が起きたのでしょう。新派や、新劇、歌舞伎役者たちが、ノートンや操一の成功を見て、奇術が劇場で興行されたなら周囲の芝居をする劇場が閑古鳥になってしまう。それを役者が危惧して、役所を動かしたのではないかと思います。ここで天一は、超えられない壁の大きさに直面します。

 

 天一が東京進出を考えたのも、劇場で興行したいと考えたのも、全ては千日前の仮設の舞台から脱脚したい一心からなのです。小屋掛けに出続けていたから、道頓堀の五座に出られなかったのです。然し、観客が呼べるなら、奇術であれ、曲芸であれ、どんな大舞台にでも出られるはずです。それを職種と身分を混同して、人の発展を妨げようとするのは間違いです。天一はそれを多くの人にわかってもらおうとして、東京進出を決め、劇場に出て、実際にたくさんの観客を集めて見せることで、日本中どこの劇場も納得して、天一一座を迎えるに違いないと考えたのです。

 そうなら、天一は、まず東京の一流劇場を押さえて、実績を見せなければなりません。そのことは、天一だけでなく、操一も同じだったはずです。彼も文楽座に出ることで、小屋掛けから脱極したかった一人なのです。

 なぜ二人が、こうまで劇場に出ることに固執したのかと言うなら、それは、5年前に東京に出た中村一登久が、浅草の小屋掛けで半年に及ぶロングランを打って、大当たりしたのですが、その後も、未だに小屋掛けに出続けているからです。

 一登久は多くの人に愛されていますが、いわゆる上流階級の人たちには相手にされていません。小屋掛けには上流階級は来ないのです。当然活動の幅は限られます。新しい時代が来て、地方都市にもどんどん劇場が建っているにもかかわらず、一登久は殆どそうした場所とは無縁の場所で活動をしているのです。明らかに時代に取り残されつつあります。操一も天一も、そうした一登久の姿を見ているのです。

 天一は、これまでのように、生きるためにどんな場所でも奇術を見せていたことを恥じました。もっと、もっと大きく自分を売って、高い理想を持って活動しなければならないことを知ったのです。

 そうであるからこそ、東京に出て文楽座を狙っていたのですが、結果は不許可です。天一は困りました。マネージャーの三越も同様です。三越は、悩んだ挙句、自分の妻、美千代の叔父が横田香苗と言い、政府の賞勲局の書記官をしていたのを思い出し、横田を訪ねて相談をしました。すると横田は秘策を教えてくれました。

 それは、文楽座が一度劇場の申請を取り下げて、寄席として申請し直す。そのため、文楽座を文楽亭と改名すればよい。と言うものです。勿論、天一の興行が終ったなら、また元の文楽座に戻せばよいと言うのです。

 座を亭に替えれば許可が下りると言うわけです。三越にすれば「なんだそんなことか」。と呆気に取られてしまいます。毎日悩み抜いていたのは一体何だったのかと馬鹿らしくなりました。恐らく横田は、「役所なんてそんなものだ」。と言ったと思います。書面面(づら)さえ合っていればそれでいいのです。このことは現代でも役所を相手にしていると度々経験することです。

 すぐさま、天一にこのことを話すと天一は大喜びです。文楽座の梅本も了解です。梅本にすれば、劇場の格が落ちることよりも、収入を失うことのほうが劇場の危機なのです。それほど文楽座はひっ迫していたのです。

 早速文楽座は文楽亭となって、天一一座を迎え入れます。天一の人生を見ていると、何度も危機が訪れます。然しその都度工夫をして、危機を乗り越え、乗り越えた後にはそれまでの何倍も大きくなっています。天一を幸運な人と見るのは簡単なことですが、ただ世の中の流れのままに生きて来たのではありません。

 特に、この東京進出は、天一の立場を決定づけました。この興行以後、天一は日本一の奇術師になり、他の日本の芸能人をはるかに超えた、観客動員力と収入を上げて見せたのです。天一は奇術師の中の一人ではなく、他のジャンルの芸能人を凌ぐほどに有名だったのです。九代目団十郎、五代目菊五郎川上音二郎、桃中軒雲右衛門と言った、明治期の芸能人と並んで、常に名前の挙がる人だったのです。さて天一文楽座での興行がどんなものだったのか、それは明日お話ししましょう。

続く