手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

室町の見巧者

室町の見巧者(みごうしゃ)

 

 室町中期を生きた公家で貞成親王(さだふさしんのう=1372年~1456年)と言う人があります。この人は後花園天皇の実父に当たる人で、後に御崇光院(ごすこういん)と呼ばれ、伏見宮家の三代目に当たります。つまり当時の公家の中でも最も位の高い公家です。時代は、三代将軍義満の時代に生まれ、八代将軍義政の時代に亡くなっています。

 この人は大変に芸能に造詣が深く、あらゆる芸能を見聞きしています。それを「看聞御記(かんもんぎょき)」という書物に記しています。この書は恐らく日記をもとに記したものらしく、いつ、どこで、どんな芸能を見たか、その内容がどんなものだったか、演者のレベルはどれほどか、などなど詳細に記してあります。室町時代の芸能を知る上では貴重な資料です。

 こうした人が現れると言うところが室町時代の面白いところです。天皇のお父様が本気になって、小屋掛けに通い、芸能の良し悪しを評論しているのですから。

 そもそも、大変に位の高い人ですので、そう簡単に市井に出て気軽に芸能を見られるとは思えませんが、わざと汚い恰好をしたりして、工夫して見に行ったのでしょう。時に自分の屋敷に芸人を呼んで芸を披露させています。時代を考えると、天皇の父親と言う人の屋敷に芸人が入って行くこと自体不可能だったはずで、よほど貞成親王が芸能を気に入っていて、理解ある家来を手名付けて、芸人を呼ぶように手筈をして、苦心して芸能を見ていたようです。

 この時代の芸能は、放下(ほうか)と言い、放下は手妻のことだけを指すわけではなく、曲芸も、操り人形も、アクロバットも、鳴き真似(声帯模写)も、琵琶演奏、歌、舞踊、芸能はみんな放下だったのです。

 奈良時代に生まれた散楽は、その後一部は田楽に発展します。田楽も散楽も大きな一座を持ち、村々の祭礼を回って人集めをして興行しました。その後、平安末期になると、放下師と言うものが生まれます。放下とは元々は坊さんが、仏の道をわかりやすく話して聞かせることから始まりました。なにも楽しみのない農村に、京から放下師が訪ねてくること自体が村人にとっては珍しいことで、たくさんの人が連日連夜集まり、仏の話に耳を傾けます。坊さんも初めは真面目に説教をしていたようですが、だんだんとギャグを加えたり、京の巷(ちまた)の話をいろいろ交えたりして、人の興味を集める工夫をします。そうなるとこれは今日の漫談になります。面白い話をする坊さんなら人気が出て方々で招かれます。

 やがて、放下が大人気になり、日本中どこでも、多くの人があつまるようになります。そうなると、何も坊さんにばかり任せておくのは勿体ないと、田楽一座から離れて、曲芸と操り人形、或いは幻術(マジック)、琵琶、歌、舞踊、などと言った技を持った数名の仲間が集まって、農村を回って演芸をするようになります。

 人数も三人四人と言った小さな編成で、いろいろな芸能を見せるチームがたくさんできて、大人気となります。これが鎌倉時代から、室町時代にかけての話です。初めは仏の道を説いていたものが、いつの間にか仏はいなくなってしまいます。そして芸能一座になって行きます。

 京には、幾つものチームが本拠地を持って暮らしていて、辻々で頻繁に放下の興行がなされます。興行とは言っても、劇場のようなものはありませんので、葦簀(よしず)で囲ったり、筵囲いをして簡易劇場を作り木戸銭を取って興行します。

 

 こうした場所に貞成親王は、お忍びでやって来て、芸能を見ていたのでしょう。同様な公家の仲間がたくさんいたようで、屋敷内に芸人を呼ぶときには、仲間にも声をかけて一緒に楽しんでいたようです。それがいつしか、目慣れて来て、誰それの芸はどこがいいとか、あれはぜひ見ておいた方が良い、などと情報交換するようになり、ついには日記に芸能の感想まで書くようになります。

 つまり、「見巧者(みごうしゃ)」の誕生です。見巧者と言うのは、見る目を持った観客のことで、巧い芸人をその昔は「巧者」と呼びました。その巧者を見分ける目を持った観客を見巧者と言ったのです。江戸時代になると、芝居小屋や、寄席などに必ず何人もの見巧者がいて、芸人を育てていたのです。

 その見巧者の発生は江戸時代よりも古く、室町時代にはもう育っていたことになります。これはヨーロッパの歴史と比べても、日本の方がはるかに古くにショウを見る文化が発達していたことになります。

 

 応永32(1425)年、「放下一人参る、手毬、リウコ舞、又 品玉、ヒイナを舞す。」

 と、あります。放下師が一人で屋敷に来たようです。当然、ふらりと来れる場所ではありませんから、予め、貞成親王が、どこかの小屋掛けで見ていて気に行った芸人に声を掛けて、後日、屋敷に呼んだのでしょう。

 呼ばれた芸人は曲芸師で、手毬の曲芸を演じ、リウコ(竜鼓=ひょうたんのように胴の括れた道具を、紐を操って回して行く芸、西洋のディアボロ)。その後に書かれている品玉は、お手玉を使った綾取りのような芸を指します。手妻で言う品玉は江戸時代になってからの呼び名で、室町期は曲芸の綾取りを指します。何にしても、今も演じられている曲芸の数々を見たことになります。

 

 永享8(1436)年、正月28日に、

 藤寿石阿ら、召されて参る。石阿毬付きの名人なり。

この毬の名人は、「とうじゅ せきあ」と読むのでしょうか。随分立派な名前です。決して食い詰めた芸人には見えません。この当時にはすでに一芸で生計を立てられる芸人が何人も育っていたのでしょう。藤寿石阿ら、とありますので、石阿は何人かの仲間や弟子を連れてきていたのでしょう。

 全体でどんな芸を演じたのかはわかりませんが、貞成親王はよほど石阿を気に入っていたようで、この後も、嘉吉元(1441)年に再度屋敷に招き、仲間と一緒に鑑賞しています。この時の仲間の評判も良かったようで、貞成親王の面目も立ったようです。

 

 放下と言う大衆文化が徐々に評価され、一芸能として認められてゆく過程が見えます。室町時代は面白い時代です。

続く