手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

文字にしない価値

 日本の伝統芸能には、一子相伝(いっしそうでん)とか口伝(くでん)と言う考え方がよく出て来ます。今日はここののところをお話ししましょう。手妻にも、口伝や一子相伝の秘密があります。昭和40年代の手妻は今にも消えそうな状況でした。

 そんな時に、10代の私は古い手妻師の家に行き、いろいろ手妻を習ううちに、「これは本当は簡単に教えられないことなんだけど」、と前置きをして、とても重要な話を聞かせてもらいました。後で考えてみると、それが口伝でした。もう消え去る間際の手妻の世界では、伝えるべき人もいなかったのでしょう。殆ど行き摺りの若者に過ぎない私に、一縷の望みで、手妻の奥義を託さなければならないほど、当時の手妻はひっ迫していたのです。そこで聞いた数々の口伝は私にとって、今では宝物になっています。

 今、私はこうして習った口伝を弟子に一つ一つ教えていますが、例えば、ビデオにして残すとか、文字にして残そうとは考えません。それはこれまでのマジックの発展を思えば、映像や、文字にして残すことは、多くのマジックの工夫がいかに無価値になって行ったかがわかるからです。疑う前に、リングでも、3本ロープでも、今や100円ショップで売られています。それがなぜそうなったかは、明らかで、マジックを物として取引したからです。一度マジックを商品にして、価格が付けば、そこから先はダンピング合戦になります。初めに一つ1万円で売られていたマジックが30年経てば100円になり、もっと時間が過ぎれば、ネットでただで解説されてしまいます。

 先人が苦労して気付いた工夫も、一度人に教えれば、道具のおまけのような扱いで、解説書の片隅に公開されて、その価値が顧みられることなく、アマチュアのおもちゃとして公開されてしまいます。それがいい伝え方でないのは明らかで、やはり口伝は口伝として、価値のわかる人に残すべきなのです。

 アメリカでもヨーロッパでも、本当の秘密は、公開されません。やはりその分野で能力のある人にのみ伝えられています。それは当然なことなのです。日本の口伝、一子相伝の類は、種仕掛けだけではなく、稽古の仕方とか、演じる場所の注意なども含まれていて、本来はかなり細かな内容が残されています。残念なことは、その口伝が水芸や、蝶など、特定の作品に偏っていて、他の手妻の口伝がほとんど残っていないことです。私があと10年早く生まれていれば、もっともっと多くの口伝が残されたであろうことを思うと残念でなりません。

 然し、芸能を残そうとするなら、文章にして残してもよかったはずです。なぜ芸能が口伝と言う形で残されていったかと考えると、それは多分に仏教思想が影響していると思います。

 

 仏教では、お釈迦様の生存中から既に、いろいろなことを、さも、お釈迦様が言ったかのように伝える人がいて、仏教界は随分乱れていたそうです。お釈迦様の晩年に、弟子たちは、お釈迦様が何を悟ったのか、悟りの本質が聞きたくて、言葉で教えてくれるように頼みます。然しお釈迦様は、「悟りと言うものは言葉にはできない。仮に教えても、それは間違った意味になる」。と言って話してくれません。

 然し、悟りの本質がわからなければ、仏教を伝えようがありませんから、「間違いであるとしても、本質に近い言葉で教えてください」。と懇願します。やむなくお釈迦様は、「将来のことを思うと、何人にも話すと、悟りの内容が変わってしまう可能性があるから、一人にだけ伝えよう」。と言います。そこで信頼のできる弟子一人に、他の人に話をしない約束で悟りを伝えます。弟子は悟りを聞きます。これが真実を一人にだけ話すために、「真、言(しんごん、正しきことを伝える)」となるのです。しかもそれを人に話さずに。代々信頼できる次の人にだけ伝えて行くために「密、教(みっきょう、秘密を教えて行く)」ことなのです。真言密教とは、いわば一子相伝を意味します。

 仏教のお釈迦様の言葉がどういうものなのか、私は知りません。然し、今も、高野山では、代々お釈迦様の言葉は口伝えで継がれているのでしょう。文献や記録を第一とする西洋の考えと比べると、あまりに違った発想で継承がなされています。

 このやり方で行くと、手妻と同様に、口伝が途絶えてしまう場合も多々あると思います。然し、こうして残った仏教や、芸能には、種仕掛けだけでない不思議な伝承があります。手妻に関して言うなら、中には全く意味の分からないものもあります。本当なら、ある時期に、口伝や一子相伝を全部書き出して、客観的に整理をする必要があります。その上で、また次の伝承の世界に戻してゆくべきなのです。

 但し、残念ながら、今。手妻をする人たちの中で、口伝を求めようとする人はほとんどいません。見たさまの手妻にしか興味がありません。それはある意味いたし方のないことです。それでも誰かがしっかり残しておかないと、手妻の何が今も伝わっているのかという、手妻の本質が失われてしまいます。

 西洋のマジックにないもの考え方があるから手妻には価値があるのですから、西洋にない部分をしっかり理解しない限り、手妻の価値は残せません。特に、昔と違い、親子の継承と言うものがほとんど途絶えてしまった今となっては、口伝を血縁でないものに伝えることは、教える側にとっては大きな決断になります。よほど信頼できるものでない限り教えられません。いつもいつも指導をしながら、ここの本質はだれに教えよう。と思い悩むことになります。