手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新しい活動は 色即是空 空即是色 1

新しい活動は 色即是空 空即是色 1

 

 いきなり般若心経のお経の文句で始まりましたが、仏教の哲学にはこうした反対のものを並べて、それが同じものであると説くことが多々あります。「色=しき」とは、色彩ではありません。いろいろなもののことを指します。単純に、物と考えてもいいでしょう。「空=くう」とはそらではなく、何もないことを指します。「空手」の空は、何も持たないことを意味しています。

 そこで「色即是空」とは物がたくさんあることはすなわち何もないこと。「空即是色」は、何もないということは実はものがたくさんあること。という意味になります。反対の意味のものを並べてどちらも同じことと説いています。よくわからない話です。

 

 何か人のやらない新しいことを始めた経験のある人ならお分かりと思いますが、一つの仕事を手掛けようとすると、世の中には何一つ使えそうなもの、役に立ちそうなものなどありません。自分自身が起こした活動に役立つものなどこの世の中には何もないのです。つまり世の中は自分にとって都合よくはできていないということです。逆に言えば、何かをするということは何から何まで、隅から隅まで一から起こさなければならず、目の前のたった一つのことですら、自分で作り上げなければならず、それを実現させるためには大きな困難を伴うことなのです。

 

 私が20代で、手妻を手順にして、現代(昭和50年代)の人に再現して見せたい。と考えたときに、実際始めてみると何一つ頼りになるものがなかったのです。ないというのは、伝承されている口伝、型、手妻の道具はもちろん、小間物も、テーブルも、衣装も、仕事先も、お客様も、何一つありませんでした。つまり、一見何でもある世の中に暮らしていながらも、いざ新しいことを手掛けるとなると、何から何まで何もないという問題に直面します。これがすなわち「色即是空」で、いろいろなものがあると思っていると、実は何もない。という状況です。

 むろん、蝶や、蒸籠(せいろう)といった古典の作品はありました。他にも調べてゆくとわずかですが、ほかの作品も、口伝も、演じる型もわずかには残されていました。しかし、それらを大きくまとめて、30分40分と演じてゆくには、それだけではとても数が足らないのです。

 しかも残されていた道具はまったくお粗末なものでした。蒸籠は、マジックショップでベニヤ板で作ったアイロンの外箱のような箱を売っていました。それはどう見ても手妻の箱には見えません。和を知らない人が見様見真似で作ったものなのです。

 できることなら、きっちり木目のある無垢の平板でこしらえて、生漆(きうるし=透明な飴色の漆)の塗ってあるような、本来の手妻の箱が欲しいと探しましたが、そんなものはマジックの世界には一つとしてなかったのです。

 

 それは二つ引き出し(夫婦引き出し)も同じでした。満足な道具などありませんでした。そこで当時マジックショップに道具を卸していた道具製作者と仲良くなり、製作をお願いしました。この人は人が良くて、手先が器用な人で、有り合わせのもので何でもこしらえてくれる人でした。仕事が早くて、「こんなもの」と図面を書いて渡すと、一週間くらいで品物にしてくれました。出来上がった引き出しは、桐材で角々を接着剤で止めてありました。

 そんな道具でも、よそにはないものですから出来た時はうれしくて、何度もその道具で稽古をしました。ところが一週間もしないうちに、肝心の仕掛けの部分が簡単に壊れてしまって作動しなくなりました。しかも、演技の途中で引き出しに水を入れる段があるのですが、箱はボンドでくっついているため、何度も水を入れると水漏れし、やがて箱はバラバラになってしまいました。

 昭和52,3年。箱代は3万円か4万円したと思います。4万円のお金を作るためには、キャバレーに最低3日は出なければなりません。一か月に12,3本のキャバレーの仕事で生活していたマジシャンにとっては、そこから3日間の収入を割くことはつらいものです。それが一週間使って壊れてしまうのは何とも情けない話です。

 もちろん製作者に電話して直してもらいましたが、出来上がったものを作り直すというのは手間がかかる上に、仕上がりは汚くなります。直ってきたものは、夢に描いていたものとは大違いで、なんとも不格好で、しかも演技しにくい粗悪なものでした。

 

 私の手妻の再現は、江戸末期や、明治初年の、芝居小屋を自分の看板で開けて、多くの観客を集めていた時代の手妻師です。その後に寄席の中に入って、噺家の色物として活動してゆくような手妻師ではなく。大看板を張って生きていた手妻師になりたかったのです。彼らの舞台姿は浮世絵や、伝授本の挿絵にも描かれています。

 衣装は、二枚三枚を重ね着していて、袖先には「吹き」という、中の着物が少しはみ出ていて、その袖はわずかに綿が入っていて分厚くなっています。着物は、金糸や金箔で縫い取りがしてあって、大きな蝶や、雲の柄が金銀で描かれています。

 こんな着物があったらどんなにいいだろう。と思って探しましたが、どこにも売ってはいません。浅草には吊るしで、金銀の着物が売られていましたが、どうも違います。私の求めているものはもっと、もっと贅沢な衣装なのです。

 やがて、人のつてで、歌舞伎座の衣装屋さんを世話をしてもらいました。そこには私の欲しいものが山ほどありました。そこで裃と着物を注文しましたが、なんとその衣装の見積りは55万円もしました。1本1万2千円のギャラしか取っていないマジシャンにとってはまったく別世界の金額でした。

 しかし、自分の夢を実現させるにはこれを買うしかありません。私は貯金のすべてをはたいて歌舞伎の衣装を作りました。

 出費は大きなものでしたが、少なくとも、衣装に関しては歌舞伎の関係者と付き合いを持てたお陰で、自分の夢は達成できました。つまり、物は何もないのではなく、自分が何もないと思い込んでいたのであって、よくよく探して歩けば狙い通りのものがあるのだと気付きました。それが、「空即是色」です。

 どうやら仏教の教えは、物の見方を教えているようです。つまり、あるということもないということも、どちらも現実を見ておらず、自分の見方一つなのだと語っているようです。面白い考えです。そのことはまた明日お話ししましょう。

続く