手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

何が手妻(和妻)か

 又も朝4時に起きて、麦茶を飲みながらブログを書いています。睡眠は6時間取れたので問題はないと思います。10日間悩まされた帯状疱疹は消えつつあります。全く帯状疱疹にはひどい目に合いました。顔の左側に帯状にぶつぶつができて、そこから電気ショックのようなチクチクとした痛みが、まるで行進曲の太鼓ようにリズミカルに、脳を刺激してきます。

 痛みと言っても外傷の痛みとは違い、昔の玩具で、箱に入ったトランプを引き抜こうとするとびりびりと搾れるいたずら玩具がありましたが、あの電気ショックに近いものです。私はあれが嫌いで、見るのも嫌なのですが、あのトランプの箱を額に当てて、リズムに合わせて箱を引っ張るようなもので、とんでもないいじめにあっているようで、耐えがたい不快感が顔半分を支配していました。

 今は良くなりましたが、完全に刺激が消えたわけではありません。忘れたころにピリピリします。あと5日もすればよくなるそうです。

 

何が手妻(和妻)か

 この数年で、和妻をする若い人が増えて、マジシャンの集まる会合などでも見知らぬ人から挨拶されることが多くなりました。一時期和妻の演じ手が全くいなくなって、これはもう終わってしまう世界かと言われていた時代を思えば隔世の感があります。

 こうした状況は良いことだと思います。どんな手妻であれ、それを演じようとする人がいなければ、誰も見るチャンスがなくなってしまうのですから、どんな形であれ演じられて、残ってゆくことはいいことなのです。

 よく訳知りのマニアなどから「今、和妻をやっている若手を見てどう思いますか」。と聞かれることがあります。こうした場合、相手は、私からの答えとして、「着物の着方ができていない」。とか、「ハンカチの持ち方が違う。蒸籠の持ち方ができていない」。などと、問題の指摘を期待して尋ねて来る場合が多いようなのですが。私は「演じ手の数が増えることはいいことです。内容の良い、悪いは、私が何かを言わなくても、5年、10年経てば必ず淘汰されてゆきますから、良いものが残ります。まず分母を大きくしなければ良い人材は集まりません」と言っています。

 例えば、学生が発表会で演じる傘出しを、私が何か言うべきではありません。たくさん傘が出て来て面白ければそれでいいのです。観客が演技を見て、傘出しのどこかが面白い、と思ってくれればそれでよく、あとは自然に観客が質の高い手妻を探して、見たいと思うようになります。そうなれば、巡り巡って私の所にもお客様が回って来るのですからそれはいい結果です。

 

 ただし気になることがあります。若い和妻プロの紹介分の中に、「伝統的な和妻の継承者」。とか、「長い歴史の蓄積から生まれた芸能」。とか、「古典芸能としての完成された内容」。と言った宣伝文句が書かれている人がありますが、これは疑問です。

 私はどんな和妻があってもいいと思います。和も、洋風も一緒くたになった演技であろうと、全く自己流に作った和妻であろうと、何でも結構なのです。ただ、そうして創作の和妻をお作りになったなら、それに自信を持ってもらいたいと思います。それを古典と偽って、古典に擦り寄ってきたり、自分から妙な権威付けをする必要はないと思います。ここでは何が手妻か、何が古典芸能かについてお話しします。

 

古典の定義

1、誰から習ったのか

 マジックショップから小道具を仕入れて、付属の解説書を読んで、「はいよくわかりました。私は古典芸能の継承者です」。と言うのは間違いです。先ず誰から習ったかが一番大切です。習った先生がちゃんと和妻の知識のある人でなければいけません。そして、習った先生の更に先生が誰から習ったのか、これも大切です。自分の先生の先生が実はマジックショップの小道具の解説書を読んで覚えたのでは同じ結果です。

 代々遡(さかのぼ)って、明治期くらいまで戻ることが可能であれば、それは古典の手妻と考えてよいでしょう。古典とはそういう意味で、きっちり代々人から人に伝わっているものを言います。物や書き物でも残っていれば十分価値はありますが、手妻が実演である以上、口上を習い、手を取り、体の動きまで習わなければ芸の継承にはなりません。

 今でも東京、大阪に古典を継承している手妻師が何人かいます。ご自身が古典の継承者になりたいと希望するのであれば、直接習いに行くことをお勧めします。その上で、何を習ったか、誰から習ったかの系譜を書いてもらうようにしたほうがよいでしょう。後々の証拠になります。

 

2、口伝を継承していること

 古典には必ず表に出ない、内々だけの口伝えがあります。これを口伝(くでん)と言います。蝶や、水芸のは多くの口伝が残されていますが、わずかですが、蒸籠や、夫婦引き出しなどにも口伝は残されています。口伝と言うのは、多くは、種仕掛けだけでは演じることのできない秘密が特定の子弟の間だけに伝えられたものです。これを知って演じるのと、知らずに演じるのでは演技の本質が変わってきます。今は口伝もあまりやかましいことを言わなくなり、比較的、容易に習えてもらえるようになりました。せっかく手妻の興味を示したなら、一つでも口伝を習って学んでおくことは大切です。

 

3、楽屋のしきたりを学ぶ

 弟子修行などをすると、周囲の別の業種の方々とのお付き合いがいろいろあります。最低限の楽屋マナーなどを習っておくことは大切です。座敷で、あいさつの仕方もできないと言う理由で、いきなり帰された手妻師の話も聞きます。お辞儀の仕方、座敷の入り方、楽屋の使い方、お茶の入れ方、座布団の当て方。最低限のマナーを学んでおくことは大事です。

 

4、着物の着付け、畳み方、

 来る、脱ぐ、畳む、わずかこれだけのことですが、きっちり勉強している人とそうでない人は大きく違います。古典芸能継承者であるなら、この辺をしっかりできないと、とんでもない失敗をします。言葉だけの古典継承者になるのではなく、相応の応対がきっちりできなければうまく行きません。同じに習うなら、細かなマナーもきっちり学んでおくとよいでしょう。

 

5、流派、一門を大切に、

 一つ二つ手妻を習ったからそれでおしまいと言うのは違います。流派、一門は手妻を長く残してゆかなければならない使命があります。誰かかが残したから、今、我々はその恩恵にあやかっているわけです。そうであるなら流派、一門の活動には積極的に協力をしなければいけません。物を頼むときだけ一門ではいけません。古典の継承者になるならその義務を果たさなければいけません。みんなが協力するから手妻が残って行くのです。助け合うことで一門、流派の力が生まれます。これがなかなかこの道では有難く作用します。個人で活動しているマジシャンとは一線を画しているわけです。

 この道で生きようとするなら、嘘偽りで身を固めていてはいけません。それではいつまでたっても偽物です。自称、古典芸能継承者。伝統保持者、これは何の役にも立ちません。本物になるなら本気になってください。