手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

手妻か和妻か

 今朝も4時に起きてしまいました。睡眠時間は6時間です。いつものようにコーヒーを入れ、さぁ、今日は何を書こうかと考えて、頭に構想をまとめてからブログを書きます。ブログを書き始めたころは、いきなり題名の通りの内容を書いていましたが、今はこうして雑談に少し時間を取っています。朝いきなりまとまった文章を書こうとするには荷が重く、均しの時間が必要です。ちょうど落語の枕のようなものです。これのお陰でさっきまで眠っていた頭が起き出し、スムーズに文章が出て来ます。

 帯状疱疹はだいぶ良くなりました。時折ズキッ、ズキッと電気が走ります。これがなくなれば日常の生活に戻れるのですが、簡単ではありません。皮膚はだいぶ目立たなくなりました。

 

 来月は、群馬の猿ヶ京に行って、泊まり込みでマジックレッスンをします。そこには、元、芸者の見番(けんばん)があります。なかなか大きな建物です。見番と言うのは、ホテルのお座敷に出かける前に芸者衆が集まって、化粧をしたり、踊りや三味線の稽古をする場所です。いい時代には何十人もの芸者がいて賑わっていたのでしょう。しかし今は一人もいません。猿ヶ京温泉そのものがかつての賑わいがなく、訪れる人もわずかです。芸者を上げて大宴会をする人などもいなくなったのでしょう。

 この建物は誰も使用していません。私はそこの検番を年間の賃料を支払って借りています。一階には日ごろ使わない大道具などを保管してあります。年に数回、そこに泊まり込んで稽古をしています。二階には立派な舞台があります。緞帳もついていますし、舞台も広くとってあります。客席は畳ですが、そこで寝起きします。布団もたくさんあります。下にも部屋があります。弟子やら、生徒さんと泊まり込みで、朝から晩まで稽古です。

 次回は、6月20日、21日、の一泊旅行です。参加費1万円、食費3000円です。私と仲間の車に乗って行くのであれば、交通費は割り勘の実費です。高速料金、ガソリン代などで3000円くらいでしょう。覚えたいマジック、或いは手妻の希望があればお知らせください。ご意思に添えない場合もあります。

近くに利根川の源流などあり、朝散策するには素晴らしい土地です。人が殆どいませんので、まるで自宅の庭です。近くには町営温泉があって、サウナから、露天風呂から、レストランまで揃っています。とても贅沢な一日を過ごせます。

 参加ご希望の方はいらっしゃいますか。限定10人までです。現在5人まで決まっています。ご興味ありましたら、ご一報ください。 03-5378-2882

近くのホテルなど宿泊希望がありましたら、連絡しておきます。

 

手妻か和妻か

 マジック界で日本奇術のことを和妻(わづま)と言いますが、日本奇術の正式名称は「手妻(てづま)」です。江戸時代の名称で、手わざのマジックを手妻、仕掛け物のマジックを手品と呼んでいました。辞書や、歴史の文献には手妻、手品のいずれかしか載っておりません。従いまして、私の職業は手妻師です。

 では和妻とはどこから出てきた言葉かと言うと、明治になって、西洋奇術が入って来ます。寄席などで、従来の手妻と西洋奇術を区別する意味で、西洋奇術は洋妻(ようづま)と呼び、従来の手妻を和妻と呼ぶようになりました。全くの楽屋符牒です。これはちょうど、洋風の部屋を洋間、日本本来の部屋を和室と呼ぶことと同じです。洋服、和服、洋食、和食、いずれも明治以降に考えられた言葉です。

 然し、和妻がどこまで一般に普及した言葉なのかと考えますと、明治の時代ですら、手妻師は手妻師であって、自らを和妻師と呼ぶことはありませんでした。やがて、洋妻が、一般的に奇術と呼ばれるようになると、楽屋でも奇術師と呼ばれるようになり、洋妻の言葉は廃れました。和妻はその後わずかに符牒として残りましたが、正式に書物などでそう表記されることはありませんでした。

 

無形文化財認定

 ところが、戦後、和妻は独り歩きします。手妻を継承していた先人が無くなって行くと、その後に手妻を覚えた人たちは、なぜか手妻を名乗らず、和妻と称するようになります。手妻は本来、手の妻、すなわち、手慰み、手わざ、と言った意味から発生した言葉です。それを、和妻と表記しては、意味も内容も何も伝わらなくなってしまいます。

また歴史の流れとも寸断されてしまいます。これは誤った表記です。

 私の一門では手妻師で統一しています。しかし例えば大学などでは、和妻と言って、傘出しなどを演じています。あれも、もし本気で日本の伝統芸を研究するのであれば、手妻と表記したほうが良いと思います。

 困ったことに、平成9年、文化庁から、歴史に残すべき芸能として、和妻が伝統保存の対象として認められました。つまり無形文化財です。その名称が「和妻」です。

 実は、私が奇術協会の役員だったころに文化庁や、当時無形文化財を選定してくださった、大学教授の先生に、名称の変更を掛け合ったのですが、この件は通りませんでした。無形文化財に指定されたことは快挙ですが、名称のミスは致命的です。思うに、この時代までもが。手妻と言うものに多くの奇術師が無理解だった証しと言えます。名称の決定を一人の判断にゆだねてしまったのです。

 

手妻協会設立はあるか

 この先は私が人生をかけて、名称を改めるほかはありません。本当なら手妻協会なるものを起こして、手妻を一般に告知して、正しく人を育てて行けばいいのですが、実際日本中の手妻師を集めても、30人とは集まらないでしょう。その中でプロと称するに足る、ちゃんと修行をして手妻を学んだ人で、実力のある人がどれだけ存在するかと考えたなら、10人に満たないのではないかと思います。手妻師が増えた、増えた、と言っても現実にはそんなものです。

 そこで協会設立を唱えても、沸き起る人々の期待の上に組織が生まれるわけではありませんから、根本が危ういものだと思います。正しい手妻師を育てる活動も、手妻協会も、まず、手妻をいつでも見られる場所を作ることが先決でしょう。その劇場には、日本の昔からある、軽業や、曲芸、曲独楽、写し絵、人形芝居(一人扱いの文楽人形のようなもの)、そうした芸能と一緒になって演じられる場を作らなければなりません。

 然し、そうした劇場ができたとして、お客様を確実に呼べるでしょうか。私は、今、残された伝統芸能が、お客様を呼ぶには、個々の芸能が、もっともっとお客様のニーズを調べて、お客様が求めている芸能を提供しない限り、入場料を取って、連日人に見せるのは難しいのではないかと思います。そのことは、全ての古典芸能に言えることです。余りに、お弟子さんや、少数の理解者に寄りかかって生きてきた結果が、今は、どの古典芸能も、お客様から離れてしまっています。

 明日は、私が見た古典芸能の世界と現状についてお話ししましょう。

続く