手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 13

 さて、私の仕事の仕方はいつもそうなのですが、初めに問題点を書きだして、それを一つ一つ克服してゆこうと考えます。つまり、自分で自分のハードルを上げた上で、その解決策を模索します。このやり方は答えは明確に出ますが、七転八倒の苦しみを体験します。作り上げようとする世界が初めから高いのです。

 バブルがなぜ崩壊したのかと言うなら、みんながみんな物と金を追い求めたからです。それも共通して株と土地でした。株はいくらでも刷ることができますが、土地には限りがあります。その限られた土地をみんなで買い漁りましたから、土地の値段が実態以上に高騰したのです。昭和60年代の、数か月のうちに東京の土地が二倍半に値上がりしたのです。何の根拠で値が上がったのか、誰もわかりません。わからないままに資産価値が上がってみんな喜んでいたのです。

 そのつけがそのあとに来るようになりました。平成になってから、土地は暴落し、実体のない会社の株は紙くずになりました。銀行の貸し出しが規制されたのです。特に土地は、資産家の間では、「日本の土地は有史以来値が下がったことがない」。と言われていたのです。然し、それは幻想でした。いきなり地価が半値以下になり、倒産する不動産屋さん、土地に金を貸した銀行、投機を当て込んで土地を買った会社、みんな倒産してしまいました。

 この時多くの日本人は、金、物を追い求めることに虚しさを感じたのです。さてこの先どう生きる。となった時に、日本人の多くは古典に目を向けたのです。それまで見向きもされなかった、古典の世界が、平成になると脚光を浴びるようになります。能、狂言雅楽、今までそんな社会で活動する人の名前が表に出ることなど有り得なかったものが、どんどん古典の実演家の中からスターが出て来ます。

 人生に行き詰った時、日本人は過去を見ます。これは幸せなことです。過去に学ぶべき道しるべがあるのです。歴史のない国、例えばアメリカなどは、大不況が来ると、全く解決策が見いだせず、自殺者が激増します。日本では古典に興味がゆきます。

 これは私もチャンスだなぁ、と感じ取りました。然し、このチャンスに手妻は何を提供できるのかと考えた時に、ハンカチが出る。傘が出ると言う手妻ではないないことはわかりました。物、金を追い求めた後の次なる時代なのですから。かなりメンタルな世界を語らなければ人の注目は集まらないはずです。

 そこでもう一度、蝶を見直し、一度解体して、一から考えてみることにしました。これは私の人生で最大の研究になりました。

 蝶は、これと言った道具も使わず、半紙の破片をひねって蝶を作り、扇で扇いで飛ばすと言う芸です。然し道具は使わないと言っても、扇子や、極薄の半紙などが家庭に普通に置いてあると言うのは、近世の生活で、江戸時代か古くても室町末期、それよりも時代がさかのぼることはないでしょう。それも、発祥は中国だと思われていますが、実際は中国に蝶の手順がなく、日本には残されたものがほとんど唯一ですから、考案者は日本人でしょう。(神仙戯術と言う書の中で、胡蝶飛の題名で解説されていますが、神仙戯術は中国本の漢訳ではなく、日本人の創作だと思います)。

 但し、考案とはいっても、扇子で半紙の切れ端を仰ぐだけのことですから、特に複雑なものではありません。仕事もなく、金もない人が、日がな一日退屈に任せて蝶を飛ばして遊んでいたのでしょう。世界の発明の、発端はいつでも、

 1、退屈、2、金がない。3、やっても役に立たないことに夢中になる。

 この三つの要素がそろった時に、人は想像をたくましくします。物がない、金がない、時間が有り余っている。は想像のチャンスなのです。芸術は暇と無駄から生まれます。但し、当初蝶は単独の芸ではなく、ヒョコと呼ばれる、操りの一種です。羽織の紐が踊る。紙人形が踊る。そうした中に蝶が混ざっていたのです。やがて蝶が操りから独立します。江戸の中ごろだろうと思います。

 蝶は座敷などで、芸人が飛ばしながら、様々な情景を言葉で語り、風景を描写する芸に発展して行きます。日本人の好きな「見立て」の芸です。見立てとは、例えば、畳んだ扇子を横笛に「見立てる」。広げた扇子を盃に「見立てる」。と言ったように、それらしく演じて世界を作ることです。この景色を見せる芸が流行って長いこと、蝶は見立ての芸として残りました。

 ここに哲学を語り、人生を取り入れたのが柳川一蝶斎です。一羽の蝶が二羽になり、二羽は結ばれ、やがて子をなして千羽蝶となって飛び去ってゆく。成り替わり立ち代わり生まれ変わっては同じことを繰り返してゆく。無常の世界です。ここに至って、手妻は完成を見るのです。それが江戸末期です。

 蝶が口上を語らずに、無常を伝えて行くにはどうしたらいいのか。随分悩みました。悩んでもなかなか結論が出て来ません。いつしか40を過ぎてしまいました。

 その間、親父の癌が肺に移り、体が衰弱してゆきます。親父は、自分の癌体験を漫談にし、寄席でしゃべるようになりました。それが面白いと、随分お客様が付きました。親父は、孫娘が好きで、よく私の家に泊まりに来ました。そして、孫と遊び、私と何時間でも話をしたがったのです。昔話、芸能のこと。あらゆることを話しました。親父の寿命がそう長くないことはわかります。それだけに私も話し相手になろうと、努めて一緒にいる時間を持ちました。それが平成9年12月に亡くなりました。

 もうこれから先は誰に頼ることもできません。蝶も、手妻もできたものはポツポツ舞台に掛けていますが、いまだ中途半端な状態です。仕事のほうはそうは多くありません。40代と言うものが絶対安定した人生だろうと思っていたのに、とんでもない話です。年は40を過ぎても何一つ芸事がわかっていないし、何もできていないのです。

 年が明けて、平成10年正月。「さて、これからどう生きて行こうか」。そう思って当てもなく先々に思いを馳せていました。その時、私を側面で支えてくれる強力な支援者が現れたのです。全く予想もしていないことでした。

 

続く。