手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 12

 平成5年にバブルがはじけて、ひどい不況が始まりました。何しろ、山一証券や、北海道拓殖銀行が倒産してしまうんですから、日本中、まさかまさかの事件が毎日起こったのです。ほんの2,3年前までは、OLが、どこそこのフランス料理は魚のムニエルがおいしいだの、イタ飯のマグロのカルパッチョがいいだのと言っていたものが、残業代もつかなくなり、会社そのものが怪しくなって、満足に外食もできなくなったのです。 

 都内のフランス料理店が倒産し、代わって福岡のもつ鍋が流行りだします。昨日まで、ワインの銘柄にこだわっていたOLが、今はもつ鍋で焼酎を飲んでいるのですから、変わり身の早さには恐れ入ります。

 但し、あえて申し上げますが、私はバブルがあったことも、バブルがはじけたこともどちらもよかったと思っています。その後に、バブルを諸悪の根源のように言う人が出ましたが、その時代に生きた者の証言として、バブルはあってよかったのです。

 

 それは、昭和60年から、平成5年までの約9年間。日本人は日本の歴史の中で、初めて豊かな生活が享受できたのです。日本史を見ると、平安文化、室町文化元禄文化化政文化と豊かだった時代が時々やってきましたが、それらの豊かさは、当時の都市部の、地位の高い人たちが経験した豊かさであって、大多数の農民や、町人には豊かさの恩恵はほとんど手に入らず、飢えている人が大勢いたのです。

 それが、国全体に金があふれ出し、新幹線は伸び、高速道路ができ、四国に橋がかかり、町と言う町がどこも見違えるようにきれいになりました。個人も家が持てるようになり、それまで、木造、板壁、瓦屋根の地味な家が主流だったものが、どんどんタイルやレンガを使った家が出来て来て、町が明るくなりました。会社も新社屋がどんどんできました。家や会社を作れば、建設屋さんが儲かり、そこで働く大工さんが儲かり、大工さんの下で働くアルバイトが儲かり、人が不足して、1年先の建築まで仕事がいっぱいになってしまいました。あの時代はみんなが忙しく、ニコニコしていました。

 日本人の隅々までも、誰にもお金が回ったことなど今までなかったのです。この時代に職業を持っていて、健康に働いていたなら、みんな小さな贅沢が出来たのです。

 但し、私の親父のように、芸人で、65を過ぎて、しかも大腸がんに罹って入院、などと言う状態になるとバブルの景気は目の前を通過してゆくだけで、恩恵はもたらされませんでした。それでも親父は、人づてで小さな仕事をして、生涯、他の仕事をせずに芸人として生きて行けたのですから、幸せな人生だったと思います。

 

 話は長くなりましたが、世間が目まぐるしく価値観を変えて行く中で、私もバブル期のような潤沢な予算の仕事が取れないことはわかっていました。そこで、規模を縮小した手順を作らなければいけません。平成5年から、平成15年くらいまでの10年間。私はひたすら手妻の作品作りやアレンジをしていました。

 その過程で、平成6年に芸術祭に参加し、幸いに二度目の受賞をしました。「それっ、これで不況から抜け出せるぞ」。と喜んでいたのですが、日本自体が不景気で、芸術祭そのものが話題にもなりません。新聞の記事も、わずか数行の扱いでした。一回目の受賞の時には、あちこちからお祝いが届き、仕事が山ほど来たのですが、今回は全く素通りされてしまいました。時代の厳しさを知りました。

 

 とにかく、イリュージョンの仕事が減り、水芸だけを頼りにしていたのでは、生活も不安定です。何とか相手方が買いやすい、小さな手順も作らなければいけません。

 それにはいくつかの構想がありました。一つは、蒸籠や、二つ引出し、真田紐などの手妻の作品をつなぎ合わせて、そこに傘出しを織り交ぜた7分程度の手順を作ること。

 もう一つは蝶の手順を全くゼロから組み直すこと。これも7分程度のものに仕上げたいと考えました。こうして、二つのスライハンドを一緒に演じて、14分から15分やるのです。前半にスライハンド、後半にスライハンドと言う二つのスライハンドの手順と言うのは珍しいです。然し、効果はあると思います。スライハンドは喋らないが故にお客様の想像力を掻き立てます。マジシャンはなまじ喋るから余計なことを言って、品が下がり芸術としての価値を下げます。そうなら、前半と後半を全くしゃべらずに進行する手順ならきっと高級感が出ると思います。

 そして、その真ん中に、逆に、柱抜き(サムタイ)、札焼き、お椀と玉と言った、喋りネタを入れるのです。これでトータル40分の手順にするアイディアです。その時、なるべく古いセリフを取り入れて、より古典を演じている演出にすることを考えました。手順はアレンジして、スマートなものに作り替えても、セリフは昔のセリフを生かして、全体を見た時に、少しも私の工夫が入っていないような、古風に感じさせるように工夫したのです。結果としてこれは良い方向に進みましたし、私の演技はどれも、私のアレンジがされているにもかかわらず、全体としてみると、古典を維持して演じている作品として評価されるようになったのです。

 とにかく、演技全体を通して、昔の手妻を見たという充実感を与えて、世界観を作り上げ、トータルコーディネートをしたかったのです。

 

 そして、これは私が最も苦心した点なのですが、蝶をエンディングの手順に持って行き、オープニングに傘や引き出しなどの賑やかな手順に持って行ったことです。常識で考えるなら、蝶は昔からオープニングに演じられていたものなのです。それは仕掛けの都合上そうしなければならないものでしたし、なんせ、紙一枚で作った蝶がひらひら飛ぶだけの芸ですから、芸としては地味なものです。それを取りネタに持って行く、と言うのはいろいろな点で無理がありました。

 普通に、初めに蝶を演じて、お終いは、ハンカチやら、帯やら傘ががたくさん出て来て華やかに終わることがショウとしては常套な手段です。然しそれだとお客様にハッピーな結末は伝えられますが、もっともっと心の奥深くにメッセージを伝える芸にはならないと判断したのです。

 あくまで、私は幸福を伝えるのではなく、蝶が生まれ変わりながら繰り返し生きて行く、無常観を伝えたかったのです。バブルがはじけて、多くの人が仕事をなくして、次にどう生きて行っていいか、将来の見えない世界を模索している時こそ、無常観を伝えることが次の時代のメッセージになるのではないかと思ったのです。然し言うは易く、行うは難しで、随分苦労しました。

 

続く