手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の漫才史

昭和の漫才史

 

 このところ何度か、神保喜利彦さんとメールでやり取りをしています。神保さんは、昭和の漫才の研究家で、私の親父(南けんじ)が一時期漫才をしていた時代があって、どう言う理由かわかりませんが神保さんはその時代のことに興味を持って調べています。

 今となっては、親父の資料と言うものは、私の家に残されているのみですので、お役に立つなら、資料をお見せするのはやぶさかではありません。神保さんは、今年の暮れに、昭和の漫才の歴史を筑摩書房から本にして出されるそうです。私の親父(南けんじ、條あきら)のことも載せて下さるそうです。

 私の親父は、どう考えても、世間の話題に上るような人ではなく、そんな芸人の人生を歴史の一片として、本にして下さると言うのは何とも奇特な人だと思います。

 

 その神保さんが私に高松虹天と言う奇術師のことを調べて下さって、数日前に、その資料を頂きました。高松虹天は今となってはマジックの専門家ですらその名を知っている人は希で、全く歴史に埋もれてしまった名前です。

 古い奇術師なら、松旭斎良子さんの師匠である。と言えば、かすかにご存じの人もあるかも知れません。奇術師の歴史は、なかなか残りにくく、今活動しているマジシャンですら、50年後には何も資料が残らない可能性があります。

 ましてや明治大正期の奇術師となると資料は極めてわずかです。唯一、多く資料が残っている、松旭斎の一門なら、何とか系譜をたどって調べることは出来ますが、そのほかの流派となると多くは闇の彼方です。

 私がなぜ高松虹天を知っているのかと言えば、それは奇術研究家の平岩白風(故人)から、12本リングのルーツは高松虹天だと聞いたからです。調べてみると、昭和35年の奇術研究に、平岩氏が松旭斎良子(よしこ)師(故人)のことを書いていて、良子師は12本リングを得意芸にしていました。その良子師は師匠である高松虹天から習ったとありました。更に、虹天は、天長斎ミカドから習ったと、系譜が書かれていたのです。

 平岩氏は一体どうやってこの系譜を探り当てたのかは知りませんが、このことにより、私の12本リングが、130年くらいの履歴を経て今につながりました。

 少し整理しておきましょう。知る限りにおいての12本リングの初代は、天長斎ミカドです。ミカドと言う人は今では全く謎の人です。そのミカドから習ったのが、高松虹天です。そして、虹天の芸を継いだのが弟子の虹菊です。この虹菊は後に初代天勝の弟子になって、良子という名前をもらっています。

 良子師は女性ながらも一座を持っていて、イリュージョンをよくやっていました。渚晴彦師がアシスタントをしていた時代がありました。私は子供のころに一度良子師を見ましたが、小柄で、顔がおたふくのようなふっくらとしたほほをした人でした。昭和40年代に亡くなったと思います。

 私が12本リングを習ったのは、良子師の弟子の松旭斎千恵師でした。つまり、私の演じる12本リングは、天長斎ミカド、高松虹天、松旭斎良子、松旭斎千恵、と4人の師匠がいて、私はその5代目になるわけです。

 

 話は長くなりましたが、私は、書籍にこの事を書いています。ところが、大きな失敗をしています。それは、平岩氏は資料で、高松虹天を、紅天と誤記していました。私はそのまま鵜呑みにして、紅天と表記してしまったのです。

 しかも、女性ばかり60人も使って大きなショウをしていた、と書いてあります。名前が紅天で、女性60人も使う一座の座長なら、天勝と同様に、女性のマジシャンだろう。と早合点し、高松虹天を紅天と書き、女性の座長と書いてしまいました。その間違いを指摘して下さったのが神保さんでした。

 神保さんは、虹天が若いころ、落語家の5代目三枡屋小勝の弟子になっていたことを調べています。更に若いころは寄席に出て、奇術をしていたこと、リングを得意にしていたことなどの情報をご教授くださいました。その後女流の大一座をもって活躍したことなど、詳しく調べられています。

 大阪の曲芸師、泉虹天は、高松虹天の息子だと言う情報も得ています。然し、泉虹天さんは既に亡くなっています。泉さんにはご家族がいらしたようです。もし、ご家族が、父親の使った12本リングなどを記念に持っていたなら、百年前のリングが出て来て、高松虹天、泉虹天の親子二代が使用したリングと言うことで、貴重な資料となります。明治期のリングの素材や、接合部分をどう繋げていたのかは大変興味があります。でも、どうでしょう。今となっては多分出てこないでしょう。

 マジックの道具は、演者が亡くなると、ごみ扱いをされ、捨てられる運命にあります。現に今も、数々のマジック愛好家が亡くなると、道具の価値が顧みられることなく捨てられています。残念です。

 高松虹天は、昭和50年代に亡くなったとあります。享年90。もしその頃の私が晩年の高松師を知っていたなら、きっと会いに行っていたでしょう。上手くすれば明治時代の道具や資料なども譲り受けることができたかもしれません。縁がないことはどうにもなりません。

 とにかく、神保さんのような、地味な芸人の人生を調べ上げる人がいると言うことが素晴らしいことです。これが日本の文化です。誰に頼まれるわけでもなく、調べたいことを調べて、それをまとめ上げる、一見、世の中の役に立ちそうもないことでもしっかり調べる。これはその社会の分厚い文化になります。アメリカやイギリスなどは、こうした研究家がたくさんいて、今も、カーディーニや、サーストンなど多くのマジシャンの研究がされていて、折々新発見が専門誌に載っています。

 私も一時期古い資料を調べて本にして出しましたが、当時は、過去の奇術師を調べて一般書店に並ぶような本を出す人がいなかったため、「誰もやらないのなら、私がやっておこう」。という、一種の義侠心から書いたことです。今では奇術史の研究家も何人か出て来ていますので、もう私の仕事ではありません。ぜひ研究家に人にお任せしたいと思います。

 何にしても地道な活動に時間を費やしている神保さんに敬意を表します。

続く