手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

金魚釣り 1

金魚釣り 1

 

 「金魚釣り」と言うマジックは昭和20年代から40年代くらいまで、たくさんのマジシャンによってあちこちで演じられていました。多くは、松旭斎のお姉さん方が得意としていて、夏場、お祭りのシーズンになると浴衣姿で舞台に出てきて、とてもいい雰囲気で愛嬌よく金魚を釣って見せていました。

 小さな釣り竿(50~60㎝の長さの竹竿)で、釣りをするような動作を見せて、例えば紙袋のようなものの中に糸を垂れて、ほんの数秒してから釣竿を持ち上げると、5㎝ほどの生きた金魚が釣り上がります。金魚は、糸から外して、コップの中に入った水の中に入れると、スイスイ泳ぎます。

 その後、客席に降りて(お祭りの舞台だとお客さんは立って見ています。お客さんの間を縫って、)回り歩き、お客様の持ち物、例えば、帽子の中とか、ハンドバック、子供のポケットの中などへ釣り糸を垂れて、金魚を吊り上げます。4~5匹釣りあげて、お終いは、虫取り網のようなものを空中で振ると、そこに数十匹の金魚が現れて、用意したガラス鉢が、金魚でいっぱいになります。

 何にしても子供にとっては、生きた動物が、目の前で出てくるのが面白く、どうしてそんなことができるのか見当もつきません。面白くて不思議で、金魚釣りを見るのは楽しみでした。

 

 後年、私が金魚釣りを始めたのは、30代になってからでした。と言うのも、平成の時代になると、もう金魚釣りをする人がいなくなっていたのです。何とか復活させたいと、あちこちの師匠を訪ね歩いて、やり方を聞いて回ったのですが、どうもはっきりしたことはよくわかりません。

 基本的には、金魚釣りには、和式と洋式があると聞きました。然し、そのいづれもがどう違うのかが分かりません。

 やむなく、私が頼った人は、あのあちこちで人から借金をした上に踏み倒して生きている原寛(原田寛)さんでした。

この人は、昭和20年代に金魚釣りを始めて、当時進駐軍と呼ばれていた、米軍キャンプ(米軍の施設内に駐留している米兵のパーティー)に行っては、アメリカの若い兵隊を相手に金魚釣りをして見せていたのです。

 昭和20年代の日本には、数十万人のアメリカ兵があちこちに駐屯していて、彼らは、夕食後に時間を持て余していたので(放置しておくと、町に出て少女に暴行をしたりしかねませんから)、アメリカ軍は日本の芸能人を雇って、キャンプ内で、連日ショウを見せていたのです。

 ショウは、音楽バンドや歌手が一番人気で、次がマジックや曲芸でした。昭和20年代の日本は、あちこちの劇場が空襲で焼けてしまい。出演場所のなくなってしまった芸能人が生活できず苦労していました。彼らにとって進駐軍の仕事は願ってもない場所だったのです。

 そんな中で、マジック、曲芸は、ランク付けがされ、1段階から5段階迄査定がされました。最高クラスと、最低の芸人とでは数倍ギャラが違います。その査定を一手に任されていたのが、当時日本奇術協会会長の、松旭斎天洋でした。

 奇術師と曲芸師の数百人の仕事の本数とギャラがたった一人の権限で決まってしまうため、その力は強大で、随分関係者には恐れられたようです。後になって、私の師匠である、松旭斎清子や、松旭斎すみえなどに聞くと、天洋の我儘が怖くて、近寄って話をするのも嫌だった。と言っていました。

 

 話を戻して、原寛さんは、どのランクでマジックをしていたのかは知りませんが、相当にいいギャラをもらったようです。実際、原寛さんの金魚釣りは受けが良く、どこの米軍キャンプで演じて人気だったようです。

 原寛さんが、演じたやり方は、和の金魚釣りだったのか、西洋の金魚釣りだったのか、直接尋ねたことがありましたが、どうもはっきりしません。

 単純に考えて、松旭斎とか、帰天斎(大阪の帰天斎正一一門)のような、昔から続く一門の金魚釣りは、和式であると考えがちですが、これがどうも違います。

 と言うのも、松旭斎の金魚釣りは、天一が、アメリカ欧米公演をした際に、欧米人のマジシャンから習い覚えたもので、明治38年に帰国をした際に初めて金魚釣りを歌舞伎座で演じています。これは明らかに西洋の仕掛けで、以来松旭斎の金魚釣りはこの式です。となると松旭斎の金魚釣りは西洋式の仕掛けと言うことになります。

 一方、帰天斎の式は、元々、帰天斎と言う流派は西洋奇術を売り物としていたため、西洋のマジシャンから習ったものがほとんどです。そのルーツと言っても、どうも明治期以降のものらしく、やり方は、松旭斎とは多少の違いはあっても、元は、西洋式と思われます。

 そうなると、今残っている金魚釣りは殆ど西洋式であって、和式の金魚釣りと言うのはどこに行ったのか、と言うことになります。江戸時代の伝授本などには、細い竿を使って金魚を吊り上げる手妻があったと書かれています。そのやり方がどこに行ってしまったのか謎です。

 そもそもの疑問ですが、金魚と言う物自体が一般に飼われるようになったのは、中国や日本の市井で繁殖されて、人気が出てきて以降のものです。とりわけ江戸時代に日本では金魚のブームが起こり、街中で金魚を飼う人が増えました。そのため、金魚の売り買いをする人がたくさん現れ、金魚屋さんがいい商売になったのです。

 欧米ではこの金魚やさんと言う商売が、日本のようにポピュラーにはなり得なかったため、そもそも、金魚釣りと言うマジックを考える素地が生まれなかったと思います。そうだとすると、金魚釣りは、当時の中国奇術師が欧米に行って見せて広まったのか、あるいは幕末期の日本の手妻師が海外に出て広めたかのいずれかであって、本来欧米に金魚釣りはなかったのではないかと思います。

 いずれにしても、欧米で金魚の入手取方法は簡単ではなく、1850年代では大変にレアなマジックだったと考えられます。然し、そんな状況でも欧米では仕掛けや演技方法がまとめられてゆき、やがて、天一が欧米公演をするようになった1904年ごろには、天一が最新式の西洋奇術と思い込んで買い求めるようなマジックに発展したのです。

続く