手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

おでん

おでん

 

 冬になると、時々おでんが恋しくなります。大概おでんを出す飲み屋は、鍋で既におでんを温めてあって、客が先ず座って、酒を注文して、それからおでんを眺めて、「大根と、はんぺん、ボールをちょうだい」。などと言うと、平皿にネタを乗せて、皿の縁にはからしをペタッとつけて、少しつゆをかけて出して来ます。寒い日などはいきなり温かい料理が出るので、食べればすぐに体が温まり、酒もすすみます。

 おでんのネタは、これがおでんだ、と強く主張するものはあまりないように思います。東京でおでんネタの定番は、大根、はんぺん、豆腐(焼豆腐もあり)、ボール(さつま揚げの一連のもの)、結び昆布、こんにゃく、つみれ、タコ、卵、竹輪麩(ちくわぶ)、と言ったところでしょうか。

 それらのネタの中で大根はんぺんはさすがにはずせませんが、だからと言って圧倒的な力を持っているとは言えないでしょう。それ以外のものは別段あってもなくてもどうでもいいようなものだと思います、どうしてもこれがなければおでんではない。と言うものが見当たりません。

 東京では普通にある素材に竹輪麩(ちくわぶ)がありますが、関西に行くと竹輪はあっても、竹輪麩はまず見ることはありません。どこにでもありそうな素材ですが、食べ慣れない食材は食べないのでしょう。

 竹輪麩そのものは、小麦粉を練って竹輪の形に似せて作ったもので、練り物の高価だった時代は、安価な類似品だったと思います。竹輪なら魚のすり身を使いますから、味がしっかりついていますが、竹輪麩はそれだけを食べても何の味もしないものだと思います。

 つまり、あってもなくてもどうでもいいものの代表のように思いますが、出汁が染みて、少し茶色くなった竹輪麩は食欲をそそります。少し柔らかくなった竹輪麩を箸で崩して食べると実に味わいがあって旨いと感じます。

 おでんのネタは、どれもそうですが、それそのものはさほど自己主張しないものが多く、周りのネタの味が出汁に溶けて、その出汁の味が逆に戻って来て、染みて来ると俄然いい味になって来ます。

 言ってみれば、おでんはいろいろな素材を一緒に似て、その出汁の味を楽しむ料理のようです。こんにゃくも、豆腐も、およそ自己主張の弱い素材です。あまり強いリーダーのいない社会で、弱いものが寄せ集まって一つの料理を作る、まるで日本の社会の縮図のような料理です。ともかく、いろいろな素材を煮込んで行って、おでんの味が生まれるのでしょう。

 

 出汁は東京では醤油を使いますが、名古屋では味噌になり、関西では薄口しょうゆになります。私はどれも旨いと思います。関西ではおでんを関東煮(かんとうだき)と呼びます。してみるとおでんは東京が発祥なのでしょうか。

 そもそもおでんは田楽から来た名前です。田楽とは、関西の観光地などで、豆腐やこんにゃくを串にさして、味噌だれを付けて焼いている料理、あれが田楽です。昔からある料理ですが、東京ではあまり見かけません。

 東京ではあえて味噌田楽などと呼ぶこともあります。豆腐を細長く切って、串に刺して焙りながら、味噌だれを付けます。木の芽和えなどが付いている時もあります。何にしても、お茶受けに食べるもののようで、これで腹いっぱいにする人はいません。おやつです。

 それがどうして、出汁に入れて煮込むようになったのかはわかりませんが、流れからすると、豆腐とこんにゃくが入っていれば田楽なのかもしれません。

 そうだとするなら、おでん本来の主役は、豆腐にこんにゃくではないかと思います。今では大根やはんぺんに圧されて、余り注文する人もいなくなりましたが、豆腐にこんにゃくこそ田楽の元、おでんの由来なのでしょう。

 その豆腐に味噌を塗って焼く料理をなぜ田楽と言うか、と言うことについては、私は少し知識があります。

 

 平安から鎌倉時代に、田楽一座と言う芸能集団がいて、彼らは、神社や寺に寄宿して、祭りの季節になると、寺や神社の、末寺、末社に出向いて祭りの興行で音楽や舞を見せたり、綱渡りをしたり、軽業、曲芸、奇術をして見せて回っていたのです。

 我々の奇術の原点がこの一座なのです。多くは京都周辺に住んでいて、祭りの時期になると日本中を回っていました。芸能を見る機会の少なかった農村では、田楽一座が来ることは大歓迎だったのです。

 彼らは、派手な衣装で、太鼓や笛を吹いて一団となって村にやって来ます。その昔だったら、たくさん子供が集まったでしょう。多くは神社や寺の境内で興行しました。

 数々の演目の中に「連飛び(れんとび)」と言う、2mくらいの長い棒に、足をかける横桟を取り付けて、人が桟の上に乗って、ぴょんぴょん飛び跳ねる舞がありました。これは西洋のホッピングと同じものです。私も子供のころ遊びましたが、ホッピングには棒の付け根にばねが付いていますので、よほど運動神経の鈍い子供でも飛べますが、平安時代のものにはばねはありません。自力でぴょんぴょん飛びます。

 この連飛びがはやって、長時間飛び続ける、連飛び名人などが現れたのです。白い着物や、茶色い着物を着て、長い棒にしがみついてぴょんぴょん飛ぶさまが、田楽料理によく似ていることから、豆腐やこんにゃくの串に刺したものを田楽と名付けたようです。豆腐の串刺しを田楽と言って、誰もがピンと気付くと言うことは、豆腐料理が生まれる江戸時代までも、田楽や連飛びが農村などで普通に見られた芸能だったわけです。

 

 蛇足になりますが、私の子供のころにはよくおでん屋さんが子供の遊んでいる神社などにやって来て、おでんを売っていました。漫画のおそ松くんに出てくるチビ太と言う子供がいつもおでんを食べています。あれが60年前の日常の風景でした。まさに私は漫画のチビ太と同じでした。

 あのおでんには、必ずはんぺんとボールと竹輪麩がさしてあります。然し、よく記憶を辿ってみると、子供用のおでんはどれも小さなものでした。はんぺんも、通常の大判のはんぺんではなく、八分の一くらいに切った小さな三角形で、竹輪麩も長いものを、輪切りにした薄っぺらなものでした。ボールは高価な食べ物でしたから、恐らく玉こんにゃくなどで済ませていたのでしょう。子供の小遣いは10円と相場が決まっていましたから、10円で食べられるおでんはその程度のものだったのでしょう。それでもおでん屋さんが来るのは楽しみでした。

 田楽の連飛びから味噌田楽、それを煮込んで関東煮、そしてチビ太のおでんと、1000年以上かかってようやく今のおでんにたどり着きました。おかしな理屈はどうでもいいのです。とにかく寒い晩は、湯気の昇る鍋の前で、燗酒で、おでんをやる。これが幸せです。

続く