手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

日本食 3

日本食 3

 

 海外の観光客が、ラーメン、餃子。とんかつ、かつ丼。カレー、カレーうどん(蕎麦)。これらを日本食と捉えて、旨いと評価してくれるのはまぁ、まぁ、理解できます。ここから先、鰻。蕎麦、うどん。お好み焼き、たこ焼き。と来ると海外の観光客の味覚も随分変化してきたのだなぁ、と思います。

 鰻は後でお話しするとして、蕎麦、うどんに関して、私はかつて度々海外のお客様を誘って食べに行ったのですが、以前はあまりいい反応を示しませんでした。海外の人、特にヨーロッパ人は、主食と言う考え方がなく、日本人のように、飯を丼一杯食べると言う習慣がありません。同様に、うどんが山盛り盛られていたり、蕎麦がざるに山盛り盛ってあったりすると、それを喜んで食べる人は少なかったのです。

 そのため、ひたすらうどんばかり食べさせるのも気の毒と思い、てんぷらを付けたりして、出すと、てんぷらは喜んで食べても、うどんや蕎麦は半分くらい残すようなことが何度もありました。どうもヨーロッパ人は、炭水化物をたくさん食べることをしないようなのです。

 例えばイタリア人はよくスパゲッティを食べますが、あれはオリーブオイルで炒めてあって、油気があるからうまいと感じるのではないかと思います。蕎麦うどんのように、全く油気のない、炭水化物は食べにくいのではないかと思います。

 そのため、私は、ヨーロッパ人を食事に誘う際には、飯や麺類の量の多いものはなるべく勧めなかったのです。そうなると、とんかつはいいとしても、かつ丼はどうかなぁ。と考えてしまいます。鰻はいいかもしれないけど、重箱の下に敷いてある飯は喜んで食べるかなぁ、と考えたときに、喜んで食べる、とは考えられなかったのです。

 ところが、この十年は、ラーメンで日本の味を理解したのか、蕎麦、うどんも喜んで食べるようになってきましたし、丼物も、飯を残さず食べるようになってきました。一体何が変化したのでしょう。

 

 思うにこれは、出汁(だし)の味を理解するようになったからではないかと思います。彼らは日本食を食べて、初めて出汁の味覚を理解したのでしょう。

 日本人にとっては不思議な話ですが、海外の人には出汁と言う発想がほとんどありません。シチューでも、スープでも、みんな一緒に煮込んでしまします。全部煮込んだものの内からどれが出汁か?と問われても、出汁に相当するものはありません。煮込んだものはすべて素材です。

 日本では昔から良い料理屋さんでは、初めに湯の中に、こぶと鰹節を入れて、澄んだ出汁を作ります。これがあらゆる料理の元になります。味噌汁を作るんでも、こぶや鰹節と味噌を一緒に煮込むことはしません。既に作ってある出汁と味噌を併せるのです。そうすることで全く違った味わいを作って行きます。

 この考え方が西洋料理にはないのです。中華で言う、上湯(しゃんたん)スープの考えに似ていますが、上湯スープがトリガらでスープを作るのと、こぶ、鰹でうまみを作るのとではかなり発想が違います。日本の出汁は飽くまでうまみを引き出す素なのです。

 出汁に、味噌を加えれば鍋や味噌汁になりますし、醤油とみりんを加えれば蕎麦つゆやうどんの出汁になります。私が子供のころは、家庭で出汁を取る方法は、煮干しを使っていたのですが、ある程度の年齢になって、いい店でこぶと鰹でだしを取った味噌汁を呑んだ時の感動は忘れられません。味の深みが全然違ったのです。

 蕎麦やさんのつゆを初めて食べた時も、「どうしてこんな味が出るのだろう」。と驚きました。私が10代で味わった感動と同じものを多くの外国人は感じているのでしょう。

 味は、単に旨いと感じても、なぜ旨いのか、と自分で探ろうとしないと、味わいを見つけることは出来ません。どうしてこんな深い味が出せるのだろう。と真剣に考えないと和食の値打ちは見えないのです。

 

 話は長くなりましたが、蕎麦、うどんの値打ちはそのつゆの旨味に価値があります。一見単純なつゆの味にこそ蕎麦うどんの旨味が隠されています。特にうどんは、これと言った味も香りもほとんど感じられません。これを山盛り出されて、旨いと思う観光客が実はそう多くはないはずなのです。ところが、ひとたび旨味に気付くと、うまみの味わいで蕎麦うどんがいくらでも食べられます。彼らは日本食の奥を知り始めたのです。

 

 私は子供のころから蕎麦が好きでした。うどんは出されれば食べる程度のものでした。その頃の東京のうどんは、箸でつまむとぶつぶつとちぎれてしまうようなうどんで、どこの店で食べても決して旨いものではありませんでした。

 それが、20代で初めて四国に行って、讃岐うどんを食べて、認識を変えました。「きゅっ」とした弾力のある艶のあるうどんに、薄味で炒り子の出汁の効いたつゆは、感動でした。なんでもない食べ物でしたが、飽きの来ない味で、一遍に虜になりました。

 うどんはつゆによってその味わいが変わり、その変化が楽しめるのですが、蕎麦はどんなつゆに入っていても、味が蕎麦にしみ込むほどに煮込んでは値打ちがなくなります。蕎麦は飽くまで蕎麦の味わいを残し、決してつゆと交わらない独立した味わいを残していないと、蕎麦の値打ちはありません。

 うどんはあらゆる素材と一緒になって、例えば、鍋の締めに入れるなどして、周囲と協調性を持つことでその価値を高めて行きますが、蕎麦は誰とも交わらない孤高の味わいが蕎麦の値打ちです。常に生の香りを残して、淡い主張を続ける姿こそが蕎麦のうまさです。

 うどんが海外で支店が出来て行って結構流行っていると言うのは理解できます。然し、蕎麦が海外の人に好まれているかどうかは如何わしく思います。この繊細で、淡い香りに外国人は、高い料金を出せるのかどうか。甘いつゆと、てんぷらの油の味で喜んで食べているのではないか。どうもそんな風に勘ぐってしまいます。

 但し、最近、やたらに、老舗の蕎麦屋さんで、外国人の姿をよく見ます。「彼らはこの味に気付いたのかなぁ、分からず、ファッションで食べているのかなぁ」。いつも怪訝な思いで見ています。

続く