手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

内田貴光

内田貴

 

 内田貴光さんが、今回のヤングマジシャンズセッションに出演します。もう何十年も内田さんの演技を見ていません。その後彼にどんな変化が起こったのか、楽しみです。芸能は、演技の内容が完成すると、そこから先は自分の心の中を語るようになります。心の告白が見えて初めて芸能になります。内田さんの成長が楽しみです。

 内田さんは、20代でカードマニュピレーションで売り出し、当時、有名だったマーカテンドーさんに可愛がられ、いつでもテンドーさんがつきっきりで内田さんを支えていたことを思い出します。マーカテンドー亡き後は、内田貴光さんが日本のカーディシャンのリーダーです。

 初めて内田さんを見たのはいつだったか覚えていませんが、ほどなくして、ドイツのマジックハンズのコンベンションのコンテストに出場したのを記憶しています。それは1995(平成7)年1月のことでした。なぜこの日のことを覚えているかと言う理由は、お終いに種明かしをします。

 実は私は、マジックハンズと言うマジックメーカーのオーナーであるマンフレッド・ツムさんと、SAMのコンベンションでつながりが出来て、アメリカのコンベンションで何度か食事をする機会がありました。

 1994年、ニューオリンズの世界大会で、私が水芸を演じたときに、ツムさんはとても水芸に興味を示し、ドイツで主宰している自身の大会で水芸をしてほしいと言う依頼を受けました。勿論、出演は望むところです。

 マジックハンズの大会は、ドイツのシンデルフィンゲンと言う小さな町で開催していますが、毎年かなり費用をかけて盛大な催しをしているそうです。そのメインステージは完全に固定されたステージで、そこで果たして水芸ができるものかどうか、いろいろ質問してきました。いろいろ話しているうちに具体的な寸法が出てこないため、「それなら次回の大会に行って、実際にステージを見て判断します」。と言うことになり、平成7年にドイツの大会に出かけました。

 出演の絡まないヨーロッパ行きはこの時が初めてでした。その分、じっくりコンベンションが見られるためにとても楽しみでした。

 その時日本人で参加していたのは、ショップで参加していたマーカテンドー。小野坂東さん。東さんは審査員だったのでしょうか。そしてコンテスト参加の内田さん。私。他に数名若いアマチュアさんが来ていました。

 ヨーロッパの大会と言うと、FISMが有名で、FISMは大きな大会で何百人ものコンテスタントが出ます。規模の大きさとレベルの高さで圧倒されます。然し、今回はドイツの小さな町の大会ですから、ヨーロッパのアベレージの大会を判断するにはちょうどいい機会だと思いました。

 シンデルフィンゲンの町はドイツの南、シュトゥットゥガルトの衛星都市のような町です。冬場は寒く、連日マイナス気温です。しかも夜明けが遅く、朝9時になってようやく日が差します。そして夕方3時くらいにはまた暗くなります。日中も、晴れたかと思うと暗くなり、何の前触れもなく粉雪が降ります。それも積もるほどには降らず、いつの間にかやんでいます。何とも重苦しい天気です。

 私はこの町でほんの数日生活しただけでしたが、何でブラームスの音楽が陰気臭くて、ころころと明るくなったり暗くなったりするのかがよくわかりました。ドイツにいるとああした性格になるのですね。

 出演もないので、時間にゆとりがありましたから、朝方は毎日のように旧市街に行って散歩をしていました。旧市街は高さ8mほどの石の城壁に囲まれています。町全体が丸く石垣で囲まれていて、その中が旧市街です。昔はそこに何人住んでいたのでしょうか。4000人もいたのでしょうか。

 中は迷路で、平均3階建ての家が、びっしり隙間なく建っています。今はところどころ石垣を壊して、太い道が縦横につながり、新市街と区別がなくなっていますが。昔なら、町の入り口は一つか二つでしょう。町中が高い塀で囲まれていて、息苦しかったでしょう。欧州の中世の町はどうも陰気で閉鎖的です。

 三階建てのピノキオの家のような建物の脇で洗濯をしているお婆さんがいました。見ると洗濯板を使って手で洗っています。ドイツほど発展した国で、電気洗濯機を使わずに洗濯板を使っているのは驚きでした。

 町を歩いていると、とにかく寒く、時折雪と共に、木枯らしが吹いてきます。そして、その風が遠くの教会の鐘を運んできます。「あぁ、ヨーロッパにいるんだなぁ」。と改めて感慨にふけります。

 

 さて、コンテストは、大体予想の通り、あまりうまい人は出て来ません。燕尾服やタキシードを着てのマジックが多く、カード、四つ玉はよく出て来ますが、どうもこれはと言う人がいません。内田さんが出ると拍手の大きさが変わり、明らかにこの大会一番の演技でした。結果は予想の通り、内田さんが優勝です。

 海外のコンベンションを見ていると、常に感じることですが、日本のある程度うまいアマチュアなら、大概どこのコンベンションでも優勝できるでしょう。但し、幾つか見慣れないハンドリングや、ショウ構成で洒落た展開を持っていればの話です。余りにベーシックな演技だと、欧州では埋没してしまいます。

 

 と言うわけで、その後は、テンドー、小野坂、内田と私で酒盛りです。あの頃はテンドーさんも元気でしきりに酒を飲んでいました。今となっては楽しい思い出です。

 さて、その後、帰国の際はフランクフルトから、キャセイ航空で香港で一度止まってから、東京に戻りました。香港の飛行場で休憩をしていると、たくさんの人が食い入るようにテレビを眺めています「一体何があったのか」、と見ていると、神戸の町が煙が上がってあちこち燃えているのが見えました。

 咄嗟にそれが何かは分かりませんでしたが、周囲の日本人に尋ねると、神戸で大きな地震があったことを知りました。1995年1月17日のことでした。とにかく、飛行機が飛ぶかどうかが心配でしたが、幸いにも東京の影響はなかったため、そのまま帰国が出来ました。

 帰国後、SAMの会員で兵庫大阪近辺に住む人たちに連絡をして、すぐにSAMから見舞金を送ることを決めました。見舞金と言ってもわずかのことです。

 あれから28年。長いような短いような時間が過ぎました。何はともあれ、当時の仲間が高円寺の舞台で再開できることは互いの活動がうまく行っていればこそです。先ずはこうして活動できることに感謝をして、互いにマジックを楽しみたいと思います。

続く