手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎以前 江戸中期の手妻 2

 私は柳川一蝶斎の人生に興味があって、10年ほど前に小説を書きました。然し、話は半ばで止まっています。なぜ止まったかと言うと、かなり膨大な内容ですので、こんな小説を誰が買って読んでくれるかと思うと、先が進まなくなってしまったのです。

 私は50歳で糖尿病になった時に、家で酒を飲むことをやめました。酒をやめると、血糖値は覿面に下がりました。下がったのは幸いですが、毎食後、することがありません。そこで小説や、書き物をすることを思い立ちます。毎晩数時間。調べ物をして、それをまとめます。「そもそもプロマジシャンと言うものは」「手妻のはなし」「天一一代」「種も仕掛けもございません」「たけちゃん金返せ」一連の作品は、たけちゃんを除けば、50代の10年間に書いたものです。一蝶斎もその流れです。

 調べて行くと、一蝶斎以前の手妻師のことも分かってきました。私は、自分が手妻に関わっている以上、何とか、手妻の世界で功績のあった人達をうずもれさせては申し訳ない。少しでも世に出してあげたい。と考えるようになり、一蝶斎の小説に、鈴川春五郎や、養老瀧五郎など、ごちゃごちゃと書き込んだのです。結果、小説が1000枚を超える内容になり、まとまりがつかなくなってしまいました。

 話は前後して、私の「手妻のはなし」を読まれた作家、蒔田光治先生が飛び加藤のストーリーをこしらえて、筧利夫さんがシアタークリエで演じました。これに手妻の指導をしたのが私です。しかも、劇中に手妻師役で、出演し、一か月間、役者をいたしました。その役名が鈴川春五郎でした。飛び加藤と鈴川春五郎では時代が合わないのですが、そこは小説です。これも何かのご縁と、春五郎を演じました。浅からぬ縁の春五郎さんをそのまま放って置くのも勿体ないと、このブログにも書くことにしました。

 

 鈴川春五郎、三代目春五郎、養老瀧五郎、

 春五郎が、大道具の手妻師で、鈴川と言う大きな流派の頭(かしら)であることは前回書きました。この人は、才能のある子どもたちを見つけるのがうまかったようで、その流れの中で一蝶斎や、後の三代目になる弟子や、天才子役の養老瀧五郎など、数多くの弟子を育てます。そして弟子はいずれも次の時代のスターに成長してゆきます。ということは、おのずと春五郎の技量も大きなものだったと推測できます。

 数ある弟子の中では三代目春五郎が古く、技量も優れていたのかと思われますが、何分瀧五郎と、一蝶斎の名前が大きすぎて、三代目は今では霞んでいます。春五郎の家は、たぶん、大きな稽古場を持ち、子供たちを常に5,6人は抱え、毎日鳴り物や、踊り、手妻や曲芸の稽古をさせ、そこに道具作りの職人が来たり、地方の興行師が訪ねて来たり、朝から晩まで来客が絶えず、賑やかな家だったと思います。

 一蝶斎と春五郎が師弟関係であったと言う証拠はありません。ただ、一蝶斎の演目に、「怪談手品」があることと、一蝶斎が得意とする蝶の芸の呼び名が、鈴川と同じ、「蝶の一曲」であると言うことから考えるなら、明らかに芸の継承があったと考えられます。一蝶斎はその後、大坂からやって来た谷川定吉から「浮かれの蝶」を習います。

 「蝶の一曲」と「浮かれの蝶」は仕掛け、演じ方がずいぶん違います。一蝶斎が世に出られるようになったのはひとえに谷川定吉から蝶を習ったお陰です。然し、一蝶斎は、晩年に至るまで自身の演じる蝶を「蝶の一曲」と言っています。谷川定吉は、一蝶斎の恩人ではありますが、それ以上に、春五郎に蝶の手ほどきをしてもらったことは一蝶斎にとっては大きな恩だったのでしょう。春五郎と一蝶斎は明らかに徒弟の関係だったと言えます。

 その春五郎の晩年に天才子役が弟子入りします。文化8(1811)年頃の生まれと思います。恐らく6歳くらいで弟子入りしたと思います。物覚えがよく、愛嬌もあったのでたちまち舞台に出して人気を集めます。まだいくつも芸を覚えていないにもかかわらず、人気が先行し、こののち、文政2(1819)年には江戸城に招かれて、将軍の前で技を披露しています。この子供を春五郎は格別に可愛がり、春瀧(はるたき)と言う名前を与えます。そして、行く行くは跡取りにすると宣言をします。ところがここに事件が勃発します。

 事故なのか病気なのかはっきりとした資料がないため分かりませんが、実は、春瀧が江戸城で芸を見せる前年、春五郎が突然倒れます。床に臥って春五郎は、この先の鈴川一座をどうするか決めなければいけません。ところが、肝心の春瀧は、旅興行に行っていて、しかも事故にあったと言う情報が流れ、生命の安否も分かりません。本来なら、春瀧に一座を譲るのが筋なのですが、その生命がわからないこと。しかも春瀧がまだ7歳で、無事に帰ったとしても一座をまとめるには無理があること、何より、春五郎自身の寿命がもうもたないこと。やむなく春瀧には、二代目春五郎をおくり名(死んだ者に、名誉で何代目○○を与えること)としてあたえ、番頭役をしている弟子に三代目春五郎を譲ります。そして春瀧が幸いにして戻ってきたときには、養老瀧五郎と言う別派を認め、養老の名を与えると決めました。

 春五郎にすればこうする以外なかったのでしょう。然し、おくり名と言うのは、問題が多く、春五郎に限らず、方々で跡目相続の争いの種になります。

 春五郎は文政元(1818)年に亡くなります。恐らく48くらいだったのでしょう。江戸時代なら決して早死にと言う年齢ではありません。それでも元気だった人が突然亡くなれば一門は大騒ぎです。しかも、問題はここから始まります。

 事故で死んだと思われていた春瀧が江戸に戻ってきたのです。春瀧を支えていた家族や何人かの取り巻きは、春瀧が二代目春五郎になって、更にその名前を春瀧の了解もなく三代目に譲って、当人の了解もなしに養老瀧五郎になったと言うことが承服できません。なぜ三代目の襲名を年内いっぱい待てなかったのかと苦情を言います。それは正論です。春瀧自身は人気があったため、この裁定に満足せず、養老瀧五郎を名乗った後も、相当に険悪な関係になって行きます。

 春瀧は、その後に養老瀧五郎となった後も、江戸の手妻の家元と称し、三代目を軽んじるようになります。実際人気と言い、技量と言い、瀧五郎には誰もかないません。しかも正当性を問われれば、瀧五郎は二代目の名前を持っていますから、瀧五郎の方に軍配が上がります。ここに江戸の家元が、三代目春五郎と、瀧五郎の二派に分かれてしまいます。

 その鈴川家の争う姿を我関せずで横目に見ながら、一蝶斎は浮かれの蝶を習い、人気を得て、やがて江戸一番の手妻師になってゆきます。そのお話はまた明日。

続く