手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 3

  昨日は、大樹や前田やザッキーさんと写真撮りをしました。一般的に使う顔写真と舞台写真です。前田もいい着物で紙卵や煙管(きせる)を持って写真を撮りました。まだ前田は手提げ式の引出しを持っていませんが、煙管を咥えて構えた写真を撮りました。やってみたかったのだそうです。密かに私のやる演技にあこがれを持っていたようです。無論いずれは譲ります。

 撮影終了後、ザッキーさんが私と話したがっているようでしたので、高円寺まで戻り、アトリエで話をしました。元々、ザッキーさんはプロになりたい思いが強いようですが、この一年、私からマジックを習えば習うほど、自身の技量の未熟に気づき、これでプロとして生きていけるのかどうか不安を感じたようです。そこで、一度相談に乗ってあげようと、昨日、時間を取って話を聞きました。

 大樹や、晃太郎も、入門前にはこんな風にして相談をしに来ました。誰かが話し相手になって、今の当人の立場に立って心の奥を聞かない限り、彼らの思いは一歩も前に進みません。今が一番大切な時期なのです、しみじみ話を聞きました。こんな日が人生にあることは当人にとって重要です。たった一つの人生を芸能に掛けるか否かは大きな決断なのですから。

 

一蝶斎の独立、谷川定次との出会い

 江戸時代の手妻師の歴史などと言うものを、どれだけ現代の人が好んで読むのか、と思いつつ書いていますが、毎回300人近くの人が見に来てくださいます。100人を切ったらやめようと思っていたのですが、300人と居るなら、続けようと思います。

 

 文政元(1818)年、鈴川春五郎が急死します。この時一蝶斎は32歳。一門の中ではすでに幹部だったでしょう。三代目を継いだ春五郎は、年齢不詳、一蝶斎よりは少し年上かと思われます。その三代目春五郎と、跡目争いで揉めた春瀧は8歳。人気芸人ではあっても8歳では一門をまとめることは無理でしょう。三代目は怪談手品も継承し、鈴川を維持して行きますが、人気の点では、一蝶斎のほうがはるかに高かったでしょう。

 この時、恐らく一蝶斎は、鈴川の跡目争いに嫌気がさしていたのでしょう。以後、鈴川一門とは少しずつ距離を置くようになったようです。元々近江屋の跡取りになっていたわけですから、本家のことには口出しのできない立場だったのでしょう。

 このころの、一蝶斎は、小さな一座を持って、興行していたようです。怪談手品も演じていたようですが、一蝶斎は、鈴川の家の芸の中の「蝶の一曲」がことのほか気に入り、頻繁に演じていたようです。元々いい男の一蝶斎が、優雅に蝶を飛ばせば、雰囲気は十分で、人気も高かったようです。

 然し、春五郎が亡くなった翌年。文政2(1819)年に大坂から谷川定次と言う手妻師が江戸に下って来て蝶を演じます。これがあまりに見事で江戸中の話題をさらいます。

江戸の興行街の中心は、葺屋(ふきや)町、堺町の二町です(今の日本橋人形町の近く。中村座市村座など千人も入る大きな芝居小屋が軒並み並んでいました)。

 葺屋町に谷川定吉が妻、しげ野を連れて曲芸や手妻を演じます。その中の「浮かれの蝶」が話題となります。それまで蝶を演じていた一蝶斎は、自分を超えた蝶など存在するはずはない、と自負していたでしょう。早速葺屋町へ出かけました。

 浮かれの蝶は、それまで順風満帆で生きて来た一蝶斎が初めて味わった挫折だったと思います。そもそも、旧来の蝶は、ヒョコから独立して生まれた芸で、ヒョコとは、古代の式神が原型と考えられます。つまり、紙で作った人形が演者の号令とともに突然立ち上がり歩き出したり。羽織の紐が、蛇のように動き出したり。紙で作った相撲取りが相撲を取ったり、そうした演技の中で、紙で蝶を作って飛ばしていたのです。

 この方式では、自分の前に台箱(みかん箱サイズの小さな箱、昔のマジックテーブル)を置いて演じないとできません。ほとんどは台箱の上で演技が進行します。蝶だけは空中を舞いますが、それでも台箱から離れて演じることが出来ません。

 鈴川では、ヒョコの芸から蝶の部分だけを独立させて、「蝶の一曲」として一芸に仕立てました。歴史の上では、この型のほうが古く、長い間、蝶はヒョコの一芸として演じられていました。この方式の欠点は、芸が小さいことです。ほとんどは小さな台箱の上で演じます。ところが、谷川定吉の蝶は、舞台上で蝶をこしらえるとすぐに扇に止めたり、扇を広げて地紙の上に止めたり、型を見せながらも動いてあちこちを飛び回ります。終いには花道をぐるっと一回りして、お客様の頭に上を悠々と蝶が舞いながら舞台に戻ってきます。お終いは、蝶を手にもみ込んで「吉野の山は散り桜」と言って吹雪に変えて終わります。

 恐らく一蝶斎は声も出なかったでしょう。すぐに楽屋見舞いを持って挨拶に行ったと思われますが、気持ちは落ち込んでいたでしょう。

 然し、一蝶斎はすぐに定吉を座敷に招待するなどして、懇意になり、蝶の指導を求めます。ここは全く私の推測ですが、貞吉から蝶を習うことは困難を極めたはずです。何しろ当時の最新式の演技ですし、定吉自身の得意芸です。容易に襲えるはずはありません。あらゆる手段を使って、貞吉の心をほぐして行ったのでしょう。そして、ようやく定吉の了解を取ります。

 思えば、春五郎が前年に亡くなっていたことは幸いでした。家元が生きていては、他流の芸は容易には習えなかったでしょう。春五郎が亡くなって、鈴川の家が跡目争いで揉めているさ中であったがゆえに容易に習えたわけです。一蝶斎の人生には、こうした幸運が何度も訪れます。一蝶斎が谷川定吉から蝶を習ったことは当時としては公然の事実だったようで、いくつかの文献にも出て来ます。

 ここで一蝶斎は、蝶の芸を自身の演技の柱に据えて生きて行くことを決めます。時期は定かではありませんが、名前も改名して、柳川一蝶斎と改めます。完全に鈴川の流れから決別したのです。この柳川と言う名前が一蝶斎以前からあったのかどうかは分かりません。然し、柳川と言う流派を起こし、さらに一蝶斎と言う、蝶に専念する名前を名乗ったことは一蝶斎の大きな決意の表れと思われます。その名前の由来に関してはもう少し詳しく明日、お話ししましょう。

続く