手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一蝶斎の風景 1

 昨日(12日)は一日ブログを休んでしまいました。一昨日(11日)7人の若い人たちを指導しました。その後もしばらく長い話をしまして、その晩は少々疲れました。それでも、若い人に指導することはとても自分自身にいい体験になります。

 指導をしながらも、自然自然に自分がマジックを習った10代20代のことが思い出されます。思い出しつつ教えていると、「あぁ、あの時はこうすればよかった」。「こう考えるべきだったんだ」。「教えてくれた先生にはこう接するべきだったんだ」。などと自分の過去の間違いに気づきます。

 今になって、40年も50年も前のことを思い出して、反省しても意味はないように思えますが、それでも、事の本質に気づいたときに、自分自身が一つ成長したような気持になります。間違いに気付くことに遅いも早いもありません。気付いたことは自分の宝物です。教えること、学ぶことは年齢に関係なく大切なことだと痛感します。

 

 一昨日に、アトリエのクーラーを新規に買い替えたのですが、私が100vと200vを間違えて大きなクーラーを注文してしまい、取り付け不可になってしまいました。結局、古いクーラーは取り外したのですが、新しいほうがいまだ届きません。新たな取り付けは16日になります。その間アトリエは暑いままです。

 このためアトリエに長時間籠(こも)ることが出来ず、昨日はブログを休んでしまいました。今日は朝は涼しいため、ブログを書いています。あと3日間涼しさが続けば、ブログは続きます。一蝶斎は書きたかった手妻師ですので、書いていて楽しくて仕方ありません。これは私の趣味であり、ライフワークです。

 

一蝶斎の風景 生い立ち

 江戸時代の手妻師を書き続けて来て、ようやく一蝶斎と出会います。そこで心からほっとします。と言うのは、手妻師の記録と言うのはほとんどありません。手妻の家元、春五郎ですら、全ての資料を集めても、原稿用紙半分くらいの資料しかないのです。

 しかしさすがに一蝶斎となると、資料の数はかなりあります。一蝶斎が生前如何に人に愛され、その手妻が人気であったかが多くの資料から偲ばれます。

 しかしそうは言ってもわからないことは山ほどあります。先ずいつ生まれたのかがわかりません。両親が誰で、親は何の仕事をしていたのかもわかりません。細かく見たならわからないことばかりなのです。

 彼の演じる手妻は、蝶を飛ばす芸で、一蝶斎は蝶に一生を捧げ、蝶の芸を今日の形に完成させました。然し、それだけではありません。大道具、小道具あらゆる手妻を手掛けています。この人のカテゴリーを手わざの芸人と捉えるのは間違いで、オールマイティなマジシャンだったわけです。まぁ、前置きはこれぐらいにして、少しづつお話ししてゆきましょう。

 

生まれは

 まず、いつ生まれたかわからないと申し上げましたが、彼の人生を考えると、おおよその年齢はわかります。先ず天保13(1842)年に一蝶斎を見た、文筆家の信夫恕軒は、「あの時、一蝶斎は50代半ば」、と言っています。そのすぐ後に、一蝶斎は天保の改革を恐れて、西国(名古屋、京、大坂など)の興行に数年間出ています。子供だった恕軒が見たとするなら、天保13年です。

 西国から帰って、弘化4(1847)年に浅草で、柳川一蝶斎から、柳川豊後大掾(ぶんごだいじょう)に改名披露をします。この改名披露と言うのは、ただ単に名前を変えたこととは違います。これは一蝶斎がずっと以前から考えていたことで、自らの還暦(60歳)の祝いに、養子に二代目一蝶斎を譲り、その後は、京の公家から買い取った官位、豊後大掾を名乗ったのです。このことは後で詳しくお話しします。

 と、するなら弘化4(1847)年は60歳か、もしくは59歳(昔は数えで年を数えますから)。更に、彼が亡くなった明治2(1869)年は、相当高齢であったと記録されています。亡くなる何年か前に一蝶斎を見た人が、70代の後半だったと書いていますので、無くなった時は80代だったと思います。50になると老衰で死んでいた当時の日本人からすれば、80まで生きたことは特筆すべきことです。

 ここから逆算して行って、仮に、天保13(1842)年が55歳だったとしたなら、弘化4(1847)年が60歳は正解です。そして亡くなった明治2(1869)年は82歳。これも正解となります。そうなら生まれた年は、天明7(1787)年と言うことになります。誰も一蝶斎の生まれ年を突き止めた人はいないので、これは根拠のある説として捉えていただきたいと思います。

 さて天明は、江戸の中期に当たります。興行に関しては、なかなか難しい時代で、元禄のようないい稼ぎはできなかった時代です。然し、いろいろな芸は出そろっていて、これから後に、文化文政時代を迎えると、江戸文化が花開いて行くことになります。

一蝶斎の資料では、落語家の初代三遊亭円生の弟子に入り、萬生を名乗る、とあります。いつ噺家の弟子になったかと考えると、12歳くらいではないかと思います。と言うのもその後程なくして享和2(1802)年、手妻師の近江屋庄次郎の弟子になっています。享和2年は、一蝶斎は15歳です。少なくともこの前に、噺家の弟子になっていなければ数が合いません。なぜそんな短期間、噺家の弟子になったのでしょう。実は、鈴川春五郎も子供のころにほんの数年、噺家の弟子になっています。

 私が想像するに、これは本当の徒弟に入ったわけではなかったのだと思います。この時代、芸能を目指す子供たちは、舞台で話をするための口慣らしのために、噺家に小話を習いに通っていたのでしょう。

 実はこの時代、本当の意味でプロの噺家と言うのはほとんど存在していません。みんな副業を持って、夜だけ寄席に出ているような状況で、なかなか噺で食べて行くことはできなかったのです。徒弟と言っても厳密なものではなかったでしょう。子供に小話を教えると言うのも、わずかばかりの小遣い稼ぎにしていたのだと思います。

 それでも、舞台で、咄嗟に面白いことが言えると言うのは大きな武器になりますから、舞台を目指す子供たちは、まず噺家に小話を教えてもらいに行ったのでしょう。恐らく授業料もわずかなものだったはずです。

 そうして口慣らしをして、手妻師と知りあい、手妻を習うううちに、師弟関係を結び、手妻師になって行ったのでしょう。但し、一蝶斎の師匠が、近江屋庄次郎であるか否かについては私は一つ異論があります。そのことについてはまた明日。

続く